[設立70周年記念特集]

鹿児島市医師会創設70年に思う


西区・甲北支部
林  敏雄
 平成29年11月は市医師会創設の70周年に当たるそうで,平成30年の市医報2月号で特集号を組むという。医師として鹿児島市で仕事をする以上,何らかの関係はあるわけだが,病院勤務医としては開業医ほど関わりはないと思われていた。しかし医師になる以前は病気になれば市内の医療機関にお世話になるのは当然のことであった。
 私は昭和4年東京生まれで,昭和20年8月の終戦で両親の故郷である鹿児島に引き揚げてきた。翌年春の入試で七高生になれて嬉しかったが,卒業直前の昭和23年秋に咳に微熱が続き,当時鹿児島は戦災の復興が始まったばかりで,山下町の市役所の一角でオープンしていた市立病院外来を訪れた。院長の佐々木武男先生(東大卒)は七高の大先輩で,前年まで県及び市の医師会長を兼務されていた。早速,胸部X線を撮って診察を受けたが,先生から残念ながら肺結核だよ,といわれた時にはショックで倒れそうになってしまった。当時結核は死因の第一位で,ストマイ等の治療薬はまだ無く,専ら大気・安静・栄養療法が主で,積極的治療としては内科的には人工気胸術,外科的には胸郭成形術で結核性空洞を潰す方法しかなかった。先生が早速人工気胸術を試みて下さったが,胸水が大量に貯留して継続不能となり,回復まで長期間を要してしまった。
 昭和33年,国立に移管された鹿児島大医学部に入学したが,昭和39年卒業時は卒後1年間のインターンを経て,国家試験を受ける仕組みになっており,40人の級友たちは全国のインターン病院に散っていった。私は,鹿児島市立病院でインターンを実施することにしたが,インターン生は原則無給で医師でも学生でもないという不安定な身分であった。当時すでに結婚しており,生活のためバイトをせざるを得ない状況であった。幸い市立病院近くで開業されていた横小路喜代嗣先生(昭和26年鹿医専卒)が市医師会の仕事で忙しいので,土曜の午後留守番にこないかといわれたので助かった。鹿大医学部の前身は鹿医専で戦時中軍医養成のため全国に創設された内の一つで,戦後は廃校か大学昇格かで危機的状況となった。しかし当時学生だった横小路先生達の激しい昇格運動も加わって,運よく昇格が決まったという。先生は第6代市医師会長になられて大活躍され,昭和58年2月,有名な武見太郎日本医師会長が鹿児島に来られた時,案内役を勤められたが,1週間後,暴走してきた車による不慮の交通事故で急逝されたのは本当に残念なことであった。
 私は鹿大第二内科(佐藤八郎教授)で研究生活を終え,昭和44年に伊敷の国立病院に研究検査科長兼内科医として就職,昭和56年4月国立南九州中央病院(現・鹿児島医療センター)創設と同時に転勤,昭和62年国立療養所阿久根病院院長として転勤,出水郡医師会に平成元年10月経営移譲した後,南九州中央病院副院長で復帰した。平成5年4月国立指宿病院院長として転勤,平成7年定年退職し,級友の大勝洋祐先生(鹿大第三内科助教授を経て鹿児島県医師会副会長)の経営する病院及び介護保健施設に就職した。鹿児島市の病院勤務医の場合は市の医師会員であるが役職に就いたことはなく,医師会報の随筆欄に投稿して沢山掲載していただいたので有難かった。旅行と昆虫採集が趣味なので「世界遺産めぐり」と称した海外旅行は主に県医師会報に,国内旅行は市医師会報に投稿することが多かった。病気療養中は専ら世界地図を眺めながら世界旅行を空想して楽しんでいたが,いざ勤務医として旅行に行けるようになると5,8,正月の連休と年休を利用するので,費用も大変でなんとか記録を残さなければ勿体ないの思いもあった。お蔭様で43カ国訪問して有名な世界遺産はほぼ見ることができて,心の財産が沢山貯まったことに感謝している。
 医師は患者さんという人間を扱う仕事だから,医学上の知識は勿論だが,教養人としても色々な分野の知識と,意見を述べる能力がないといけないと思う。人にはそれぞれ興味又は得意の分野があると思うが,医師会報の随筆や思うこと欄に気ままに書けば良いと思う。特に1月と8月号の随想特集号を読むのは楽しい。
陸軍幼年学校一年生(筆者)

ベルリンの日本大使館にて(父)

 私は昨年米寿を迎えて昭和は戦前,戦中,戦後の大部分と,平成は30年近くを生きてこれたことになる。この間個人的に波乱万丈の人生だったし,歴史的にも戦後生まれの人達が経験しなかったことを沢山知っている。我々後期高齢者はそれらを生きている内に伝える義務がある気がする。 
 私は終戦時,陸軍幼年学校の生徒(年齢は中学生相当)だったし,陸軍軍人だった父は,東京の陸軍参媒本部の参謀で,暗号と情報を主に担当していた。太平洋戦争勃発直前の昭和20年春,ドイツの日本大使館駐在武官補佐官となり,終戦時はハンガリーの駐在武官を勤めた。それは昨年の市医報6月号の「Jアラート・日本防衛の危機」として掲載していただいた。また昭和50年10月南日本新聞社発行の「薩摩の武人たち」に“暗号戦争”の表題で数ページにわたり紹介されている。
 戦後,父は戦争のことはあまり語らなかったが,日米開戦の直前に日本の外交や海軍暗号が,米国に解かれる危険性があるから陸軍方式に変えるべきだと警告したが,聞く耳を持たなかったという。その結果日米交渉は筒抜けだったようだし,翌年のミッドウェイ海戦で主力空母4隻を失う惨敗を喫し,更に半年後,海軍機でラバウル周辺を視察中の山本五十六連合艦隊司令長官を失った。私としては外交,防衛,戦中・戦後史に興味あり,現在,北朝鮮関連で憲法9条改正がホットな話題であり,東京裁判,靖国参拝問題,南京事件,慰安婦問題など考える事項が多い。結局,紀行文などと合わせて県医師会報には125件,市医報には30件投稿した。
 歴代の県,市の医師会長さんには,社保診療報酬審査委員会,介護認定審査委員会などの委員,鹿大同窓会の評議員などをしていた関係で一緒の先生が多く,お名前はいちいち申し上げないが,色々お世話になったのを改めてお礼申し上げたい。




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