=== 新春随筆 ===

       人 生 日 々 多 忙
(昭和21年生)



南区・谷山支部
  (仁愛会病院) 平田 宗興

 今年は戌年,丙戌の還暦を過ぎて早くも12年,父が他界して喪が晴れて再婚したのも12年前でした。母は有難いことにまだ元気で近くの老人ホームで手厚い介護を受けており,施設の皆様,関連病院の先生方に感謝する日々を過ごしております。
 折角の機会ですから私の半生を振り返ってみます。昭和21年5月私は鹿児島郡谷山町北麓に平田家の長男として生を受けました。父は耳鼻咽喉科医の宗治,母はイヅエです。平田家は8代前から谷山郷に居住する郷士筋です。昔から地頭館現在の谷山小学校を取り囲むように平田家の親族が住んでいたそうです。私の実家は谷山小学校西門の前で敷地は2反あまり約800坪あり,父は耳鼻咽喉科医院を開業していました。叔父たち二人も開業医でした。小学校に入るとほぼ同時に健児の舎「清渓学舎」に入り,文武両道を学びました。舎訓,舎歌,君が代斉唱,詩吟,剣舞,肝試し,相撲,剣道,水泳,キャンプ,寒稽古,赤穂浪士の討ち入り講話,曽我ドンの傘焼きなど,大人たちや先輩方の指導の下,たくさんのことを学びました。アーネストサトウはこれを英国に紹介してボーイスカウトができたそうです。私はどちらかというと文より武の方が好きでした。それでも幸運にもラサールや医学部に行けました。中学高校では柔道,大学ではサッカーをしていました。かなり熱心にそればっかりしていたのでその他の遊びはしていません。
 しかし運命のいたずらか大学の下宿で母を亡くしたばかりの娘に出会ってしまいました。彼女の心の隙間を埋めているうちに懇ろになり夫婦になっていました。両親の狼狽ぶりは想像を絶するものでした。結果的にそれを許した両親に対する感謝の念は言葉に表されません。五人の子宝にも恵まれ,家内の努力でしっかり教育もできました。それぞれ家庭を持ち,今は8人の孫がいます。しかし家内とはうまくいかず,開業して10年ごろ別居,その後離婚しました。それでも子供たちは自立していきました。とても有難いことです。
 大阪市立大学を卒業後整形外科教室で12年間勉強して,36歳で帰郷,鹿児島大学の門をたたき準医局員として今日までお世話になっています。翌年1983年谷山で整形外科を開業,間もなく医院から病院に改組,内科も増科してプライマリケア可能な病院つくりをしてきました。手術も専門の関節外科を中心に行っていました。自分で造った病院はまるでわが子のようでした。そこに集う先生をはじめスタッフ,患者様は家族同様です。でも理想と現実は違います。リーダーとして現状を正しく分析できなかったため2014年,自分の病気を理由に閉院しました。地域の皆様のご期待を裏切ったことを申し訳なく,痛惜に感じています。
 閉院した翌日から近くの仁愛会病院で勤務医をしています。患者様や一部のスタッフも今の病院でお世話になっており,大変幸せなことと思っております。
 しかし閉院と同時にロータリーを辞め,暇になるかと思っていましたが,病院では産業医を拝命し,現在3件,南署留置人の健康診断,学校の講義を1件,それまでのボランティア活動も一層忙しくなり,九州ミャンマー友好協会鹿児島支部長,日本フィル九州公演鹿児島実行委員長,全日本ノルデックウォーク連盟学術委員,ラサール柔道部同窓会会長,大阪市立大学同窓会鹿児島支部会長など。そのほかゴルフの仲間,写真クラブの仲間とのお付き合いなど長ずるにつれ多忙を極めるようになりました。
 自分の身の程をわきまえない,そして何事も断れない性格のせいだと悔やんでいるのですが,逆に考えれば,「頼まれる内が華」とも言えます。「人生日々多忙」これが我が定めと諦観し精一杯余生を生きていきたいと思います。皆様末永くよろしくお願い申し上げます。




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