=== 随筆・その他 ===

美しかった錦江湾A
−与次郎ケ浜回顧−
中央区・中央支部
(鮫島病院)鮫島  潤

 前回(県医師会報2013年8月号[通巻746号]緑陰随想74頁)に築港,袴腰を記述したが,それに続けて与次郎ケ浜を中心とした思い出を続けてみよう。

*天保山
 甲突川河口に広い松原が続く広っぱの中にNHKのアンテナが建っていた。そのすらりとした姿からエッフェル塔といわれていた(図1)。
 御船手橋の石碑からハローワークと天保山中学校の間の通り300mぐらいは昔釣堀になっており,数十人の人々がのんびり釣り糸を垂らしていた。今は広い大通りになっている。
 また現在坂本龍馬の新婚旅行の記念の銅像が建っている(写真1),あの堤防から先は大規模な与次郎ケ浜埋め立て地になっており,その始まりは太陽国体(昭和47年)に備えて大競技場建設の必要から天保山の沖合いに大規模な埋め立て地を建設する必要があり1959年(昭和42)鹿児島港フェリーターミナル付近から錦江湾の海水を汲み上げ滑川市場,滑川温泉を抜け南風病院の前から冷水峠を越えて今の玉里団地まで吸い上げ,そこで城山の土を崩した泥水を直径1mぐらいのパイプを通して甲突川に沿って天保山まで運ぶという大きな工事だった。昼夜を通して搬送できるし,ダンプカーの渋滞も無く,工期も短いという水搬送工法をしていた(写真2)。そうして出来た広い与次郎ケ浜埋め立て地が完成し幾多の施設が完成したのである。初めサンロイヤルホテルが出来た時は海の中にあんな大きななビルが出来て沈没しないかと驚いたものだ。
 今の国道225(谷山街道)と交差する所に与次郎ケ浜の碑が建っているあの辺りが天保山海岸の波打ち際だった。浜橋,与次郎橋,新浜橋の構造が非常に複雑なのが判る。この付近は甲突川と荒田川の流れが複雑でよく水死人が出る所だった(写真3)。

 
図1 エッフェル塔(NHK放送局)

図2 与次郎ケ浜附近の地図

写真1 坂本龍馬新婚の旅碑



写真2 水搬送工法
 写真提供者 住 高秀 様
「わたしが写した20世紀鹿児島」142頁掲載

写真3 与次郎橋


*N家の豪邸
写真4 N家の豪邸

写真5 塩田跡

写真6 霧島丸

写真7 鴨池動物園
 写真提供者 住 高秀 様


 その近くに,外壁は大きな熔岩石とそれに上積された屋根付き白壁で囲まれた純和風の豪壮な邸宅があって元気な老人がおられた。敗戦直後進駐軍命令により突然この屋敷が接収され米兵がどやどや土足のまま乗り込んで来て綺麗な池と築山はブルで整理するし純日本式の床の間に白ペンキを塗りたてて大事な戸,障子,欄間までスッカリ荒らして仕舞ったのは一番残念だったとその老人が話しておられた。あの豪華な正門をGIのジープが頻繁に出入りしていたのは敗戦したとは言え悔しいものだった。今では大きなマンションになっている(写真4)。

*広い塩田
 島津藩はもともと樟脳とか塩の生産には力を入れていた。塩屋町,塩釜神社,塩屋水神社とか塩に関係ある名前が各所に見られる。今の浜橋から県武道館まで広い範囲に大きな防波堤が築かれており,砂地の真ん中に一本の長い畦道があった。それが広がって今の国道225(谷山街道)になっている。そして水産学部敷地の一部までの広い範囲が塩田だった(図2)。1mぐらいの高さの塩の山を数百個ぐらい並べて築いていたものだ(写真5)。

*商船学校〔現在水産学部〕
 昔,商船学校(今の水産学部)の西南の一角,松林の中に大きな帆船(霧島丸1000トン:写真6)が固定してありその三本マストは威厳があった。昭和2年海軍の石炭を南洋(パラオ)にまで運送する途中,室戸岬沖?で台風により遭難し船体遺残物も職員・学生達全員の遺体も何一つ見つからなかったと言う悲劇の船である。この海域は行方の知れぬ遭難船が多く(魔の海域と言われていた)私が小学校に入る頃だったのでその事件はよく記憶している。据え置かれた同型の帆船もマストも何時の間にか無くなって記念碑だけが残っている。

*鴨池海水浴場
 鹿児島には磯,洲崎,天保山,鴨池など綺麗な海水浴場が多かった。水質検査など考えもしない程綺麗な海だった。毎年夏になると城山麓の山下小学校から鴨池まで4km程の道のりを歩いて水泳に連れて行かれた。小学生の時から毎日歩いて往復していたのを思えば大変な事だったと思う。当時は自動車など無かったし,唯一電車が走っていたが学校側は乗せてくれなかった。
 海水浴場はさらさらした砂地でキスの漁場だったし,ゴッババ(ネズミゴチ)といって釣り糸を切るので釣り人の邪魔になり大いに嫌われた不格好な魚もいたものだった。前に記したように洲崎浜みたいにゴカイ,フナムシ,ナマコなどが無数にいた。
 当時の学校教育は厳しいもので私達子どもで未だ泳げない者をわざと海中に突き落として溺れさせていた。塩辛い海水が口から鼻へ抜けてとても苦しかったのを今でも憶えている。しかしこんな訓練が将来,戦時中に非常に役に立ったのだと思う。

*鴨池動物園
 動物園は一日がかりで電車に乗って遊びに行けると言う子どもの憧れの場所だった。特に鴨池電停は高架になっておりロマンチックな造りで子どもに人気があった。隣には競馬場があり潮が満ちてくると水浸しになって競争は中止になるものだった。今の補助グラウンド,テニス場,市民球場の一帯だ。入り口は大規模な大谷石の正面門で周りの優雅な石垣が今でも昔のままに残されて懐かしい。鴨池動物園は猛獣から鳥類まで多くの動物達がいて広いボート池があり池の周りには子ども用の列車が走っていた。遊園地を含めて,その頃大正末期の日本国内の動物園としては有数なものだった(写真7)。動物園内の鴨池川の下流にはお稲荷さんの赤い鳥居が並んで神秘的な雰囲気だった。今は市営プールが出来ている。海辺には貸しボート屋もあり桜島を正面にして風光明媚な一帯だった。
 思い出せば限りがない。まだ飛行場も県庁も無く鴨池から谷山,七っ島,もっと先まで綺麗な松林が続いてそれは綺麗な海岸だった。その昔,中国の瀟湘八景に似せて薩摩三勝図会が創設した鹿児島八景を列記しておきたい。鹿児島が如何に美しかったか想像できる。

鹿児島八景
桜島暮雪 福昌寺晩鐘 玉里落雁 磯秋月
行屋帰帆 洲崎晴嵐 荒田夜雨 唐湊夕照
五代夏夫「桜島の顔」より





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