=== 随筆・その他 ===

『肥 薩 線 回 り』

中央区・中央支部
(鮫島病院)         鮫島  潤
写真 1(新幹線・鹿児島中央駅)
写真 2(いさぶろう号)

写真 3(しんぺい号)
写真 4(真幸のススキ)
写真 5(矢岳のD51デゴイチ)
写真 6(はやとの風)
写真 7(噴煙たなびく桜島)
  鹿児島中央−新八代…新幹線・誠にスマートな形(写真1)。車内内装も抜群だが、それより何とも言えないスピード感。今まで二時間以上かかっていた八代まで僅か45分。これには驚いた。しかも全く振動が無い静かなものだ。ただトンネルの連続で沿線の景色を眺める余裕は全く無い。
 新八代にて下車し在来線ホームに出る。遥かに広がる八代の平野にスラリと平行に伸びる二本の軌道、向こうにポツリと見えた点が見る間に近づいてずんぐりとした如何にも力強そうなヂーゼル機関車が近寄ってくる(写真2)。昔ながらの光景だ。乗車してみて車内のロマンチックな内装に感心する。
 八代−人吉…日本三大急流球磨川(富士川・最上川)沿いに上る。両脇に迫る緑の崖、眼下の岩に砕ける急流の白波を見ると医局時代に球磨川下りを楽しんだのを思い出す。対岸に球泉洞の船着場を見る。かつて観光した時の深さ4,800メートルもある怖いほどの洞窟と奔流する滝の深さをしみじみと思い出す。
 人吉に着くまで川を数回渡るがその鉄橋の建設は明治35年アメリカ及びドイツの技術によるものだと言う。当時としては止むを得なかったことだろう。古いけど未だガッチリしている。
 人吉−矢岳…人吉は九州の小京都と呼ばれ、相良藩の居城のある落ち着いた静かな町だ。司馬遼太郎は「日本で最も豊かな隠れ里だった」と書いている。温泉、焼酎、鮎、鰻等が特産だが、これらとは別に有名な物に瑞ずい鳥ちょう雉きじを表現した玩具の雉きじ車くるま(雉子車)がある。平家落ち武者の歴史を思わせていたが、今では大分少なくなったそうだ。若い頃球磨川に沿った温泉旅館に泊まった事があった。駅構内にある機関庫、転車台の古めかしさに鉄道の歴史の古さを思わせる。
 列車は人吉から上り坂に付く。大畑おこばのループ線はその勾配を緩める為約300メートルの円を画きながら登る方式でループ線といって清水トンネルでも利用している。又スイッチバックと言う箱根登山鉄道でも用いられる特殊な路線がある。今来た登り道を逆行して少しずらして又降る。さっきの道を見下ろしその奇観に驚きながら大畑おこば駅に入る。高度差が39メートルあるという。長い坂道を散々難儀しながらやっと登ってきた機関車が一休みして給水にありついた石造りの給水塔がある。それが現存しているのを見て懐かしかった。私たち乗客も此処の花弁状の噴水から湧き出る奇麗な冷たい水で機関車の煤で汚れた手や顔を洗ってスッキリしたものだ。残念ながら、今回はなくなっていた。
 肥薩線には全線でトンネルが60近くある。大畑おこば駅の次に肥薩線で一番高い矢岳駅(標高536メートル)に向かい話題の矢岳トンネルに入る(肥薩線で一番長く2,096メートルある)。
 此処で私には一生忘れ得ぬ思い出がある。敗戦直後のことだ。鹿児島本線が度重なる米軍機の空襲の為に各所で鉄橋が寸断されて不通になっていたので止むを得ず肥薩線を利用していた。その頃肥薩線に客が集中した為とても列車に乗り切れない。窓という窓にぶら下り機関車の前後にも列車の屋根にも連結器の間にも鈴なりに群がって乗るのが普通だった。その日も敗戦により一時でも早く帰りたい復員兵達にせがまれて定員の10倍以上の客を乗せたまま、無理に発車したそうだ。
 戦時中から粗悪な石炭で無理して運転していた国鉄は後部に補助機関車をつけて前後二台で引き揚げて発車したのだが、あの長いトンネルの連続で超過重の客を乗せ日本一の急勾配の中でとうとう登りきれなくなったが無理して次に山神トンネルに入った。二台の機関車から出る過度の蒸気と煤煙は物凄くトンネル内に篭もり、機関手は気絶して列車は止まってしまった。乗客は猛烈な煙に巻かれて苦し紛れに長いトンネルを一斉に外へ逃れようと走り出した。ところが一旦停車した機関車は遂に逆走し出した。危険を感じてトンネル外に出そうと操作したともいう。巨大な車輪とトンネルの壁に挟まれた群集はそのまま次々に列車に轢かれていった。54人の死者と多くの怪我人が出た凄惨な生き地獄だったのである。事故直後に現場を通った私は線路の脇に筵を掛けたままの多数の死体を見た。敗戦で死を免れた復員兵達が故郷を前にして非業の死を遂げた事の無念さが偲ばれた。その日の場面を思い出して身の竦む思いがする。80年経った今でも忘れない(第二山神トンネル事件)。
 明治政府が鹿児島までの鉄道を敷設するに際して海岸周りにするか山手周りにするか大いに議論された。海岸周りを鹿児島の長谷場代議士(後の文部大臣)が、山手周りを旧相良藩主が主張していたが、丁度当時は日露の関係が悪化していたので、海岸周りでは戦時に際して艦砲射撃で破壊される怖れがあるということになって安全な山側を回る事になったそうだ。明治34年に着工したが、そのためには日本一の高い駅や急な勾配、60前後の長いトンネル、90箇所前後の橋梁が必要だったわけだ。
 何しろ九州山脈の阿蘇加久藤カルデラの火口壁を掘り進むのだから非常な難工事だった。明治政府は国の威信を掛けて重大な決意の元に着工したのである。特に矢岳トンネルでは大量の資材と人馬を使って峻険を極める道なき山上に運び入れ、トンネル坑内の大量の湧水を排除する為にわざわざ発電所を建設しポンプを7箇所も置いて排水したり送風、点灯したりした。
 そして明治42年11月、8年掛かった難工事が遂に完成して青森から鹿児島まで直通出来るようになった(当時の事だから今の新幹線の貫通どころの喜びではなかっただろう)。時の逓信大臣山県伊三郎と鉄道院総裁後藤新平の揮毫から「天険若夷」「引重致遠」と言う扁額をトンネルの出口、入口に掲げて完成の喜びを表している。その意味は「天下の難所を平地であるかのように工事した御蔭で、重い貨物も遠くまで運べるようになった」との意味だ。列車の名前も「いさぶろう号」「しんぺい号」として今にその名を残している(写真3)。現代ならこれぐらいの鉄道はいくらでもあるが当時としてはたいしたものだったのだ。今では人吉−えびの間に6,265メートルの長大トンネルを通し7分で直結している。山を越える鉄道とその地下を直通する高速道路の違いで何時間か掛かる旅と何分で済む旅とどちらが良いか、将に考えさせられる。
 このトンネルを出た所に日本三大車窓(長野の篠ノ井線・根室本線旧線)といってえびの、韓国、それに坂本龍馬の新婚旅行で有名な高千穂の峰が見られるし、天気の良い日には右手遥かに櫻島まで見渡される、所謂国立公園霧島連山の絶景だ。手前には川内川及び京町の温泉街が霞んで見下ろされる。私が若い頃見た記憶そのままだった。そして今回も又新しく感激した。観光客の為に列車は徐行しまたは停車してくれる、有り難い。ホームの周囲にはススキの穂が日に映えて美しいのも若い頃の記憶のままだった(写真4)。矢岳の駅には戦時中大活躍した巨大な動輪を自慢するD51デゴイチ機関車の本物が据え付けてあり、ゆっくり見学ができるまで列車は待っていてくれた(写真5)。次の真ま幸さき駅では駅名が真の幸福という意味だそうで若いカップルが訪れるし、「幸福の鐘」を叩くようになっている。気持ちよい音だった。
 吉松−鹿児島中央…吉松駅は最盛期の頃は肥薩線、吉都線の貨客物資の分岐点として大いに栄え車掌区機関区など600人を越える職員を擁していた。あの頃の街の殷盛振りを思い出す。吉松を発車した列車(写真6)は矢嶽越えの荒々しい光景に分かれて嘉例川、隼人を経て下山しながら対照的に海と桜島の誠に優雅な光景を観賞しつつ姶良平野を錦江湾沿いに鹿児島に帰る(写真7)。午前10時に鹿児島を出て午後4時30分帰着と言う非常に手頃なコースだった。
 国鉄(現九州旅客鉄道)でも肥薩線を生きた鉄道遺産と位置付け特に観光に力を入れている。九州横断特急、しんぺい号、いさぶろう号、はやとの風(写真5)などのそれぞれ特異な形態を持った観光列車を走らせて列車のボデー、車の内装には地元の木材を使った古きよき時代の温かな雰囲気を醸し出し、周辺温泉地との提携で一泊宿泊など肥薩の歴史、観光に力を入れている。私は余りにも近代化され鉄筋ジャングルの街をアッと言う間に走り去るスピードを離れて、緑のなかの自然の森林浴に浸ってゆっくり走るのも非常に良いリクリエーションだと思い、このコースの試乗を薦めたい。

参考資料
肥薩線100年の歩み・・・・九州旅客鉄道株式会社
ひとよし・・・・・同上        
吉松郷土誌・・・・・第七章運輸・通信
 


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