随筆・その他

清  滝  川  の  変  遷
中央区・中央支部
(鮫島病院)   鮫島  潤

 清滝川という名は如何にも清流を思わせる上品な名前だが紅葉で有名な桂川の支流として京都にも存在する。鹿児島のそれは城山を水源として市中を流れて城南町で錦江湾に注いでいる。
 私は子供の頃西千石町で清滝川のほとりに住んでいた。誠に澄み切った清流がさらさらとカナダ藻、エビ藻を流し、家鴨が泳いで鮒や鯉が住み着いていた。岸には柳が枝を垂らし、川に沿った屋敷には各戸毎に苔むした石橋が掛かりそれがズラリと揃っている光景は見事なものだった。
 もともと甲突川はその昔新照院から城山の下を通り、照国神社の前から俊寛堀に抜けていたそうだ。薩摩藩の規模が大きくなり住宅地を広げる必要があり川を西に移動させて今の清滝川に移した、それを浅き川と言った頃がある。更に西に移して江戸中期頃現在の甲突川になったと言われている。城山の西端裾野の住宅の辺りの庭園に古い池や沼地があるが、現在の清滝川はそこを水源地にして居るらしい。平之町を南に下り現在千石馬場通りの大中寺の脇から霧島湯(銭湯)の間を降り今の清滝公園@に沿って左折し更に南に電車道を抜けて加治屋町市立病院裏Aから東に向け電車通りを潜り二官橋から川に被せてある市営駐車場Bを天文館公園Cまで抜けて又南に向かい、ハイカラな遊歩道天文館モールDを通り済生会病院Eの裏で丸瓦羅(がんがら)橋Fから城南小脇で思案橋Gを潜って昔の遊郭(沖の村)Hで更に塩屋橋を潜って谷山街道の清滝橋Iを越え、曲折しながら南埠頭・大島航路の発着場前で錦江湾に注いでいる。海岸側城南町は殆ど戦後の埋立地で昔の面影を思い出すのは難しい。



 私の記憶では80年前は清滝川口付近は奇麗な砂浜で春になると浜出張い(はまでばい)と言って潮干狩りで一家団欒の習慣が盛んだった。当時はまだ南林寺(廃仏毀釈後に松原神社)から続く大きな砂山でその松林を昔の人は三保の松原に似ていると称して居た。近くに日本瓦斯のタンクがあった。今はエルグ(体育施設)になって居る。現在南埠頭に大島航路の船が並んでいる城南町一帯だ。変れば変るものだ。
 このように奇麗だった清滝川も市内の交通量が増えて道路が不足し止む無く川に頑丈な柱を立て蓋をして舗装し自動車道路にして居る。御蔭で腰を曲げねば通れぬ程狭くなって陽も当たらぬ川の流れは淀み濁って環境は悪くなりどぶ川と言われるようになった。この暗渠を通じて狸や鼠が市内をチョロチョロしているようだ。川の濁りは進み、遂に酸素不足によるボラの大量死とか化学薬剤による魚の中毒死などの事件が続き海岸の漁業対策まで問題になった。また南林寺町、塩屋町あたりは塩釜神社、船魂神社があるように周囲は島津藩により塩田になって居た。もともと地盤が低い為に8・6水害などで酷い災難にあい、川に排水ポンプ、逆流防止の扉を設置されている。
 清滝川と甲突川の間、いまの錦江町の当たりはじめじめした沼地だった。塵芥投棄場になっていて暗い夜にはまるで鬼火みたいな火がチョチョロと燃えて不気味だったのを思い出す。昭和の始めで天保山橋など二つとも無い時代だった。あの辺の現在の繁栄を思うと感慨無量だ。
 清滝川に就いて昔の想い出と現在の雑然とした変り様を懐かしく眺めている。

  
清滝モール……天文館公園の南に伸びて四季の花を絶やさない上品な遊歩道で周囲の人々の管理もよく行き届いて居る。下の暗渠には清滝川が流れている。

丸瓦羅橋……沈一貫と言う唐の医師が居て島津藩に仕えて功績があった。貫かんと唐からからガンガラ橋(がんがら橋)となった。山之口町に一貫橋通りと名を残している。平成8年橋は無くなり4本の門柱が明確に残されている。
  
思案橋……ここを渡ればすぐ先は沖の村と言う所で現在でも通りが二つに分かれており、昔はここが思案のしどころだった。現在は現代的に掛け換えられている。 写真の左下が水門でその外は海だった。向こうに見える建物は沖の村でその間は埋め立てられて現在大規模な国道225号線が通っている。私が小学生の頃の精神科白浜先生のスケッチである。



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