新春随筆

五  社  参  り
中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤


 私の子供の頃、敬神崇祖の躾は非常に厳しく、天皇おわしまして臣民あり、祖先あって我々があるという信念を叩き込まれていた。昔からお正月の行事の一つに「五社参り」があった。子供ながらに羽織袴を付けて凍てつく朝の街を先輩に連れられて、加治屋町から上町まで歩いて行くものだった。(当時は車、ましてやタクシーなど考えられない時代だ)各神社とも日の丸に門松がさわやかだった。五社参りと三社参りを含めて説明しておこう。
1)南方神社:(第一の社)南北朝1300年の開祖で(島津家の始祖忠久公が奥州征伐の時信濃の国諏訪大明神に祈願して効験著しかったので之を祭った。島津家の信仰が厚く島津家の氏神様の感あり、別に諏訪神社とも呼ばれ「おすわさー」と言って農機具(鎌、鍬、または籠、バラなどの竹細工)の市が立った。武の「西田市」と並んで客が非常に混雑するものだった。
  然し磯のトンネルが出来て国道3号線が拡張されてから次第に消滅した。戦後政教分離の余波の所為か大きな台風に荒らされた後がそのままになって居るのは場所が目立つ所だけに奇異の感じがする。



2)八坂神社:(第二の社)京都八坂神社を勧請した社で祗園祭りの祭主。戦後一時平之町に移ったが平成元年旧所在地に遷宮鎮座している。幸福と商売の神。

3)稲荷神社:(第三の社)稲荷川の上流、薩摩藩の弾薬庫のあった山手にあり島津の始祖島津忠久の母、丹後の局が頼朝の児(忠久)を儲けたことで頼朝夫人(政子)に疎まれて九州に逃れる時大阪の住吉神社で産気付きそのお産を狐の灯りで助けられたという故事がある、また丹後の局の墓は薩摩日光と言われる郡山町花尾神社にあると言われるが別に局が上陸した東市来江口蓬莱浜近くにもある。どちらも真実にみえるがよく判らない。また境内には朝鮮遠征の時泗川の戦いで非常な働きをして味方を救った勇士の石碑が建っている。
  大正時代まで大乗院橋(でじょういんはし)の川筋で流鏑馬の行事が行われていたと言う。

4)春日神社:(第四の社)奈良藤原氏の春日神社の分社で島津家の信仰が厚い。慶長14年島津の琉球侵攻の当時薩摩の大規模な軍港があり戸柱橋から出航していた。ここから滑川付近まで船頭、船大工、水夫、などの集落が出来ていたが、稲荷川が浅くなったので軍港の役に立たなくなり甲突川の御舟手橋の方に移したと言う。

5)若宮神社:大隅正八幡の分祀、5代島津貞久が創建したという。

 以上島津家は、歴代神霊を祭るのに鶴嶺神社を建てたが、これは市民正月の行事として五社参りのうちに入れてなかったのは不思議に思っている。若い頃は正月に五社参りをするのは当たり前で懐かしい思い出である。
 別に三社参りというのもあった。
 一ノ宮(郡元):市内最古の神社。近所に古代遺跡が多い。
 二ノ宮(草牟田):鹿児島神社、武人、特に海戦の神と言う。護国神社の陰に隠れて小さく見えるが鬱蒼と繁る木樹には畏怖を感じた。伊敷聯兵場の演習帰りによく連れていかれた。
 三ノ宮(川上町):川上天満宮と書かれた鳥居があるという。私は三社参りに行ったことは無い。


このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2009