[設立70周年記念特集]
鹿児島市医師会70周年に寄せて
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鹿児島市医師会70年の間,平成4年4月より16年3月まで6期12年理事を務めた。その間医師会とはどうあるべきか,政治とはこんなものかと,私なりに感じたことを述べてみたい。末端の医師会の役割は,上部医師会及び地方自治体と連携し,必要な診療支援事業を展開し,会員が安心して地域住民の診療に打ち込めるようにすることにあると思う。鹿児島市医師会は,医師会病院,看護専門学校,夜間急病センター等必要な諸事業は既に整備されていて,後は継続運営するだけであった。検査センターも小園時夫検査部長の下,全自動化し,全国といわず海外からも見学に来ていた。九州首市医師会連絡協議会で,医師会病院,検査センターの運営状況を報告すると羨望の眼で見られた。最も輝いていた時期ではなかったかと思っている。
理事になって最初の主担当は健康教育,副担当は学校保健であった。当時鹿児島市の耳鼻科の学校検診は,検診医として行っていた。同じ様に検診していた眼科はすでに学校医になっていて,手当も良く,15年,20年と務めれば表彰もされていた。学校保健担当の今村正人理事と共に教育委員会保健体育科とタフな交渉をし,鹿児島県耳鼻咽喉科医会長 田原睦郎先生の協力もあって,耳鼻科もやっと学校医となった。九州や全国学校医大会に出席でき,永年勤務の表彰者も出るようになった。医事紛争の副担当をした時,主担当の田平禮章理事は非常に厳しい事例でも穏やかに対応され,訴訟にならないよう努力されているのをみて,医事紛争担当は医師会の隠れた重大な任務を負っていると思った。平成12年1月,臨床検査センターで,前事務長の横領が発覚した。これは海江田会長が事務局上層部の人事異動を行い,新事務長の土橋氏が見つけたものであった。海江田会長の英断で被害の拡大を抑える事ができたと思っている。平成15年庶務担当時,医師会病院等のIT化で,専門家とコンサルタント契約を結び,次期執行部に引き継いだが,果たして良かったかどうか。
昭和62年,中央支部長の時,代議員会に出てみると,各担当理事が,予算や決算の説明をすらすらとされていて感心した。しかし執行部に入ってみて分かったことは,原稿を事務局が書き,それをただ読み上げるだけであった。他人の書いた文章を読むのは苦手な私はよく引っかかった。TVで見る国会の委員会の質疑応答も似たようなものであろうと感じた。医師会の役員でも月づきの手当と会議出席の交通費が出た。議員には給料以外に種々の手当がある。地方議員にはなり手がいないから,年金をという話が新聞等で報道されているが,そうだろうか。議員は恵まれた名誉な職業で,子供を後継者にと思うのもうなずける。医師の世界もまた然りか。
理事を経験したおかげで視野が広くなり,専門科以外の多くの知己を得た。また一休会と称して5月や秋の連休を利用して夫人同伴の旅行をするなど楽しい思い出も多い。
医師会は,会員が安心して診療できるように,それぞれの時代に即した活動をしていく必要がある。鹿児島市医師会の益々の活躍を祈りたい。

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