[設立70周年記念特集]

新制鹿児島市医師会設立70周年を迎えて


鹿児島市医師会 監事
 有馬  桂
 昨年11月,鹿児島市医師会は新制医師会設立70周年を迎えた。誠におめでとうございます。私は,昭和59年4月から平成16年3月までの20年間鹿児島市医師会の執行部に在任した。その間,先輩理事のご指導をいただき色んな業務に従事した。私が直接関わり印象に残っている事を述べてみたい。
 昭和59年4月,再選された久留克己会長のもと新執行部がスタート,新理事として東洋一先生,海江田 健先生と有馬 桂が就任した。私は主担当が健康教育,産業医で副担当が学校保健,医報,看専校高等課程であった。まず,健康教育に関して鹿児島県医師会報昭和59年8月号に「これからの健康教育」と題して,新米理事が時論を書いている。その中で,市医師会の健康教育活動として,MBCテレビ奥様ワイド「お元気ですか」,KTSテレビあなたのかごしま「テレビ診療室」等への出演や婦人学級等の健康づくりの講演等を紹介し,最後に,「救急の日」「救急医療週間」と同じような構想で,例えば「体育の日」を中心に「健康増進週間」を設定し地域で講演会等を行う事を提案していたところ,偶然にも同年8月,日医羽田会長から都道府県医師会長宛ての厚生省が昭和59年度に創設した「40歳からの健康週間」の実施に関する協力依頼の文書が県医から届きびっくりした。早速,「市民健康講座」を立案し理事会で提案したところ,先輩理事から年度途中の新規行事はいかがなものかとクレームがついたが,久留会長のゴーサインで行われることになった。「第1回市民健康講座」は昭和59年10月13日(土)開院したばかりの市医師会病院ホールで鹿児島市,南日本新聞社と共催で開催された。健康診断・相談の後,「40歳からの健康づくり」と題して医師会病院院長の佐藤八郎先生が講演された。その後毎年秋に開催され,第3回から「市民健康まつり」と改称,第5回から市歯科医師会,市薬剤師会,県眼科医会,県栄養士会が主催団体に加わり,現在では主催団体「市民健康まつり実行委員会」(10団体),協力団体(15団体),後援団体(7団体)と大きな組織になり,昨年11月には第34回が鹿児島アリーナで開催された。次に,学校保健は副担当だったが,その年の秋,主担当の池田琢郎先生(現県医師会池田琢哉会長のご尊父)が病に倒れられた。その時,久留会長から主担当を命ぜられた。学校医の業務についてはある程度把握していたが,学校保健全般については認識不足だった。早速,担当職員から特訓を受け,市学校保健会,九州ブロック及び全国学校保健・学校医大会,日医学校保健講習会等に出席し研鑽に努めた。そして,学校医研修会を立上げ,市学校保健会の下部組織として学校検診委員会を設置した。その結果,特に養護教諭と医師会心臓検診班との意志疎通がはかられ検診が円滑に行われるようになった。また,腎臓・糖尿検診は当初は一部負担があったが,検診協力医の前田 忠先生と二人で市教育委員会と交渉し3年目の平成1年から公費負担となったことが懐かしく思い出される。
 昭和63年4月,太原春雄先生が会員の推薦により会長に選出された。太原会長から業務分担として庶務担当を命ぜられ,一瞬驚いた。私に務まるだろうかと大変不安だったが医師会運営の要だと覚悟を決め私なりに頑張った。昭和64年1月7日,昭和天皇が崩御,1月8日から元号が「平成」と改められた。平成2年7月,太原会長は,懸案事項であった「支部再編成検討委員会(沖野秀一郎委員長他会員5人,執行部有馬)」と「定款等検討委員会(小川幸男委員長他会員4人,執行部鮫島理事・有馬)」を立ち上げられ,委員会は月1回のペースで開かれ,平成3年7月にそれぞれ答申された。これを受けて平成12年に区が誕生した。また,平成3年8月には検査センターの全自動臨床検査システムが始動した。昭和62年秋より新検査システムの検討が開始され,昭和63年3月,高知医科大学中央検査部を皮切りに,全国各地の大学や検査施設を委員が手分けして視察,最後に平成2年5月,日立が開発した自動解析装置が秋田大学附属病院で稼働しているとの情報を得,急遽,太原会長,海江田理事,小園部長,中田課長と私の5人で秋田へ飛び機種が決まったのだった。ここに鹿児島市医師会方式による世界で初めての“全自動臨床検査システム”が見事に完成したのである。
 平成6年4月,松岡克己副会長が,選挙により会長に選出された。事務局に情報資料室が新設され,医療情報システムの構築と平成9年に迎える新制医師会50周年に向けて資料収集・整備を行うことになった。平成7年1月12日,阪神・淡路大震災が発生,2月4日には,太原春雄顧問がお見舞金に菜の花を添えて尼崎医師会を訪問し西村会長にお届けした。平成9年4月,新制医師会設立50周年記念事業の一つとして演奏会を行うことが決まり,「鹿児島市医師会混成合唱団」が結成された。平成8年9月,神戸にて開催された全国医師会共同利用施設総会の懇親会で,兵庫県医師会混声合唱団の素晴らしいハーモニーに魅了されたのが発端だった。私が仕掛け人となり,会員,夫人,職員等40人が月2回医師会館で猛練習し,10月30日市民文化ホールで合唱を中心に,ピアノ独奏,テノール・ソプラノ独唱,二重唱,弦楽四重奏と初めての記念演奏会が行われた。その後も合唱団は活動を続け,会員受賞祝賀会や医師会のいろいろな記念事業で出演し,独自の演奏会も行ったが,いつしか15年経過し,団員の老齢化や病気などにより平成23年3月で解散した。
 平成10年4月,海江田 健先生が選挙により会長に選出された。ここでは,平成11年10月7日に発生した亜ヒ酸混入事件について述べたい。当日午後4時頃,近くのビルの事務所社員3人が嘔吐症状を訴え有馬内科クリニックへ来院,「昼食は各自持参の弁当だったがお茶を一緒に飲んだ」とのことだったので,残り湯の入ったやかんとポットを持ってきてもらい,検査を保健所へ依頼した。40分位して保健所職員他警官5,6人来院,聞けば保健所から県警へ通報あり来院されたようであった。来院時の状況を説明し,やかん,ポットを検査のため持って行ってもらった。午後8時過ぎ保健所からポットの湯からヒ素化合物検出との報告あり,患者に医師会病院受診を連絡した。患者は5人全員入院し12,3日で軽快退院した。その1年前,和歌山市の毒物カレー事件後の厚生省通達を受け保健所,県警,医師会等で作った「毒物等混入事件の連絡系統図」がうまく機能したのである。当時,私は救急医療担当副会長であり,その打ち合わせにも出席していた。11月9日,その迅速な対応を評価され,県警本部で小野次郎本部長から感謝状をいただいた。残念なことにこの事件は平成26年10月7日殺人未遂罪の公訴時効が成立した。
 私は,平成20年4月から現在まで監事として理事会等に出席し,猪鹿倉会長を始め理事の先生方が自分の業務に懸命に取り組んでおられる姿を拝見し,ただ感謝の気持ちで一杯である。70年史の編纂が出来なかったのは残念であるが,80年に向けて邁進していただきたい。




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