[設立70周年記念特集]

新制鹿児島市医師会設立70周年に思う


北区・上町支部
(南風病院) 
顧問 鹿島 友義
 新制鹿児島市医師会が70周年を迎えたという。後で述べるように70年にはあまり意味がない。しかしその70年のうちの5年3カ月(3期だったが3期目は公益法人制度への切り替えのため1年3カ月で退任した)の長きにわたって会長の職責を汚したことになる。会員全員が有権者となる直接選挙制度で選ばれた最後の会長となった。鹿児島大学医師会の会員であったときから,県医師会の代議員や勤務医委員等をやらせていただきながら,勤務医も医師会に入会,医師会活動に協力することによって医師会の発言力,影響力を増すべきであると主張してはいたが,地域医師会の中心はどうしても開業医が中心であるべきだろうと考えていた。それが,自分でも思いがけず,鹿児島市医師会の会長という重責を担うことになって,かなり戸惑ったし,多くの方に迷惑もおかけしたと思っている。
 市医師会の役員になるまでは,大学,国立病院等の主として急性期医療を中心とした大病院の勤務医,管理者として働き,こうした公的病院の立場からしか地域医療,日本の医療を見てこなかったということをしみじみと感じた次第である。会長としてクリニックの先生方を訪問し,種々の会議で開業会員の声を直接うかがう機会も増え,さらに日本医師会の代議員会に出席させていただき,医療をめぐる環境の悪化に苦しむ会員の悲痛な声を聞くことができて,クリニック,有床診療所,中小病院の先生方の苦労を知るにいたったことは大変ありがたかった。そして日本の医療の大部分が実はこのような医療の第一線で働く中小診療施設の医師,職員によって担われていることを実感できた。こうして以前よりもかなり広い視野で日本の医療の将来を考えることができるようになったことは感謝に堪えない。
 地域医師会の任務の中心は,会員が安心して診療に専念できる条件を整えることである。そのために行政,地域住民と協力しながら,地域医療,公衆衛生,学校保健,産業保健,一般住民の健康教育等で医師会が担うべき任務を会員の協力を得て進めていくことが重要である。さらに健康保険,介護保険が有効,効率的に運営されるために行政に協力し,意見具申することも医師会の重要な役割である。医師会病院,夜間急病センター,臨床検査センター等の共同利用施設も会員の診療を援助することを最大の目的とした活動といえる。これらの医師会の日常活動が滞りなく運営されるように心を配ることは,ルーティンの業務ではあるが,執行部,事務局の最も重要な役割であると考える。これとは別にそれぞれの時期の執行部が取り組まねばならない臨時的な大問題がある。私の在任中は会館改築と新しい法人制度の二つが大きな問題(谷山の県有地問題もあったが)となった。会館改築については耐震強度の問題もあり,いつかは建て替えが必要ということについてはコンセンサスが得られていたが,どうして今でなければならないのかという事に関しては多くの慎重論もあった。また新法人制度に関しても一般法人か公益法人のどちらにすべきかについてはやはり会員の中でかなりの意見の隔たりがあり,簡単にはまとめることができなかった。執行部では「今,改築すべき,法人は公益法人であるべき」との意見が大半を占めていたので,この方針を会員の皆さまにご理解いただくために,担当理事には幾度も医報で説明していただき,支部会,区会に出かけていただいた役員の方々,幾度にもわたる会議に辛抱強く付き合っていただいた委員,代議員,会員の皆様に心から感謝したい。新公益法人への移行を期に退任することができ,皆さまに深甚の感謝を申し上げたい。新しい市医師会館も使いがってがよく,会員に喜ばれていることを嬉しく思う。

 医師会は戦前から連続して活動を続けてきたはずなのに,なぜ戦後からわざわざ新制医師会と名乗って新しい周年の数え方をするのか,不思議に思っていたが,GHQによる制度改革の一端として,(旧)医師会の解散を強いられ,新制医師会に改められたらしい。おそらく戦争協力の団体として解散を命じられたものと思われるが,国が全力を挙げて戦争遂行にあるときに,医師会が戦争に協力したのは当然のことであったと思う。宗教団体や労働団体等も含めてほとんどの団体が戦争に協力したのである。
 明治39年の内務省勅令の「医師会規則」に掲げられている医師会の設立目的は現在の日本医師会のそれと大差はない。しかも(旧)医師会の解散と(新制)医師会の設立は同日(昭和22年11月1日)となっている。GHQの締め付けが強かった時代なら仕方がないが,その後長期にわたって,新制をつけて医師会の設立を昭和22年にしておいてはなんとなく残念である。日本医師会に「右へならえ」なのかもしれないが,鹿児島市医師会の歴史はそれよりもかなり長いことにも思いを馳せてほしいと思い,以下の文章を付け加えさせていただく。
 GHQの建前だけと思える新制医師会への強制的移行のときを避けるとすると,鹿児島市医師会の設立年を何時としたらいいのか,鹿児島県医師会50年史,鹿児島市医師会50年史をひもといてみた。鹿児島市医師会という名称は,前述の明治39年の勅令医師会規則によって40年に鹿児島県医師会,翌年の明治41年に鹿児島市医師会が設立されたというのが最初のようである。しかし,これより先に明治24年(1881)に鹿児島県医会会長に中山晋平氏が就任,鹿児島市医会の会長を兼務という記載もある。別に明治30年4月に鹿児島市医会設立という記述もありはっきりしない。もっと古くには明治15年に鹿児島市の開業医師が新しく交付された「伝染病予防規則」の勉強会を開催したとの記載もある。正式に組織化されていたかどうかは不明だが,何らかの組織があったことが推定される。明治15年は無理でも,明治24年の鹿児島市医会の結成から数えると今年は137年目,鹿児島市医師会の名称を掲げてからでも110年を数えることになる。
 どなたか古い記録からこの周辺の史料を見つけていただき,鹿児島市医師会設立を何時にするのがもっとも史実に忠実かを判定する材料を見つけていただければ幸いである。
 日本医師会も鹿児島市医師会も昭和22年から活動しているのではなく,明治の時代から当時の医師たちが私達と同じ目的を掲げて,職能団体としての任務を果たしてきた歴史に思いを馳せ,日本医師会を含めて医師会の設立年を明治時代にして(新制医師会の設立からの周年を付記してもよい),明治以来の先輩医師たちの貢献を正しく評価したいと思う。




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