[設立70周年記念特集]

父 と 敬 天 愛 人


中央区・中央支部
帆北 直子
 新制鹿児島市医師会設立70周年おめでとうございます。
 私の父は今はなき大森肛門科医院の大森 勲です。加治屋町で開業し約40年地域医療に従事し,平成11年に74歳で亡くなりました。
 父は長年,県の文化財「敬天愛人」書幅の真贋問題について取り組んでおりました。
 今年は明治維新150年,テレビでは「西郷どん」の放送も始まりましたので好機と思い,生前父が鹿児島市医報に寄稿しておりました40数編の原稿の中から,ひとつを皆様にご一読いただきたく思います。

県文化財「敬天愛人」
中央支部 大森肛門科 大森  勲

              

 私はさる昭和46年10月,鹿児島県文化財「敬天愛人」の書幅は偽物の疑があり,検討されるべきことを,ときの教育長と県文化財専門委員会あてに,文書でその大要をつけてお願いした。旬日して県文化財専門委員会は,それに対する回答を発表した。が,それに納得しない某氏等は県議会文教委員会に,文化財「敬天愛人」の検討方の請願書を提出した。県議会では継続審議が繰り返され,数年後「後日善処する」として申請の取り下げを依頼し,そのようにしたと云う。私の所には1回だけ文化室の課長がみえて,敬天愛人の担当者某氏を紹介されたことがあった。しかしその後この件について検討された様子もなく,現在も県文化財として美術館に展示され,又その複製写真は南洲神社に近年建設された南洲翁顕彰館の玄関入口に掲示されている。2年程前のことになるが,鹿大教授某氏から文書を頂き,その内容は「旧庄内の人々の間で,鹿児島ではかつて大森なる者が文化財 『敬天愛人』 の書幅は偽物であると指摘したにもかかわらず,何の対応もなくそのままであるが,県はどうかしているのではないか,と笑っていた」と云うのであった。又ときの文化財専門委員の某氏にその友人である某氏を介して,現在の考えを聞いて貰ったところ,「あれは間違いであった。大森に悪いことをした」との返事だったので,再度その検討方を県知事に文書をもってお願いしたことがある。
 私がそれが偽物であるという理由を次に述べてみる。先ず一般的な問題として,県文化委はこの書幅はもと四方学舎蔵の敬天愛人で,明治8年四方限私学校生徒のために揮毫されたものであると云う昭和2年の覚書があるから本物であると云うが,南洲程の人が私学校生の綱領とも云うべき書幅に署名しなかったとは考えられない。又四方限学舎のために書かれたとして,その頃はまだ学舎は無かった筈。また全国に落款のない文化財が他にあるであろうか。昭和2年の覚書は12名のもと私学校生徒という人々の連署の形をとっているが,それは2及至3名の筆によると思われる押印なしの小書片である。書幅が相等に毀損しているが,専門委は,それは私学校生が乱暴して損じたものであり,また雨漏りのためであると説明するが,果して当時の舎監と生徒がそれを赦したであろうか。本書幅は,南洲翁没後五十年祭(昭和2年)の南洲遺墨展に出品されていない。私物なら秘匿することも考えられるが,なぜその際出品されなかったのであろう。(他に同一書体で同一人の筆になるものと誰しもが考える敬天愛人の書幅,それは当市美術館所蔵のものであるが,これに押された印譜は明らかに偽印譜である。これも出品されていない。また二幅とも南洲遺墨集のいずれにも収録されていない)字画の一部の欠損部にちぎった洋紙を貼付し,その上から墨か或いはマジックかで塗って補修してあるが,本物にそんなことをするであろうか。
次いで,書体,紙,印譜について述べよう。
1. 敬天愛人の敬は草書体であり,天は楷書もしくは行書である。西郷の書幅で行書体で始まったもので,天を天の行書でなく,天と書いたものは見あたらない。これについて専門委は,ときの私学校生徒が読み易いように天と書かれたものであると云うが,その天を天と読むことのできない生徒が敬を敬と読み得ると南洲は考えたであろうか。また,私は他に天を天と書いた南洲書幅なるものを二幅知っているが,それは全く同一書体であり,その一幅には落款がなく,一方には明らかな偽印譜が押してある。かりに南洲が楷書体で天と書いたとする。南洲の楷書体の書幅を見るが良い。すべての字で,左へ向う字画は小さくて弱く,右へ向う字画は大きく強いのがわかる。それは敬天愛人とは逆である。また人の字を見ると,南洲の人は終画が途中で必ず折れて凹んだ書体であるが,文化財のそれは明らかにその書体でない。
2. 紙について,文化財専門委は白唐紙に書かれたものであると云うが,白唐紙は竹の繊維で作られた紙で,墨がどんなに濃くても,字画の周囲には必ず「にじみ」が出来る。美術館に並列展示してある南洲書幅を見るが良い。字画は筆幅の倍近くになっている。しかもその字画は上下左右に濃淡のある二重書きのようになり,所謂「なで書き」のような墨のつきをしている。私はその紙は洋紙の性質を持ち墨汁の溜りが出来て,筆の穂先と腹の部分で異なった墨のつきが紙面に残されたものと思う。また書幅の中に白線が2,3ヶ所にみられるが,それは和紙の場合と違って墨が紙背まで浸透しないためにあとで亀裂破損部に出来た白線である。
3. 印譜について,文化財の敬天愛人は明治8年に揮毫されたものであると云うが,それならば印譜は当然,藤氏隆永の印譜が使われて然るべきである。敬天愛人に使用されている印譜を庄内遺墨集のそれと比較すれば,両者は同型異質のものであることが判る。これについては,当市印房老舗の当主も明らかに同型異質の印であると断言した。
 以上のような文書を県文化課に送付して,検討方をお願いしたが,何の返事も貰うことは出来ない。行政職員とはどんなことを考えているのでしょうか。私にはさっぱりわからない。
鹿児島市医報 1982(昭和57)年11号

 海軍兵学校出身でまがったことの嫌いな父でした。南洲以外の人が書いた敬天愛人が県の文化財とすれば,南洲翁の名誉を傷つけ,また県民を愚弄するものであると言っていた父の言葉が思い出されます。






このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2018