私は昭和4年6月10日生まれなので,平成29年同日の誕生日に満88歳の米寿を迎えた。当日は鹿児島大学医学部・旧第二内科の創立70周年記念日で,城山観光ホテルに大勢の同門OB・現役が集って祝賀会が開かれた。同席の皆さんにご披露すると,おめでとうと言われて嬉しかった。
戦前,6月10日は天智天皇が西暦671年のこの日に,大津の都で初めて水時計を作った日として“時の記念日”と言われていた。この記念日があったので,日本人は時間を守る習慣が身について,鉄道のタイムテーブルなどは世界一正確だと言われた。
以前,米寿など年齢に関連した祝い事は数え年で行うのが習わしだったので,鹿児島市および県,日本医師会から1年前にそれぞれお祝いをいただいた。戦後は年齢を満でいう決まりになったので,現在では満年齢に達した時に祝うのも普通になったという。
日本人男子の平均寿命は約80歳なので,8年もおまけに生きられたことになるが,振り返れば随分色々なことがあり,大げさに言えば波乱万丈な人生だった気もする。生まれは東京四谷で,父は国会議事堂斜め前にあった陸軍参謀本部(現・憲政記念館)勤務の軍人だった(暗号担当)。昭和10年夏,上海の日本大使館・駐在武官室に転勤となったので,家族も一緒に中国に渡った。翌11年2月,東京では二・二六事件で大変だったようだが,父は日本にいなかったので巻き込まれずに良かったと言っていた。私は4月に日本人小学校の一年生として入学した。しかし上海では抗日運動が次第に激しくなり,治安が悪化したので,年末に母,兄と私の3人は東京杉並区に引き揚げたが,昭和12年7月に遂に日中戦争が始まった。
父は昭和13年に帰国し参謀本部に戻ったが,兄が麻布中学に入学し遠距離通学になったので,南青山の明治神宮表参道近くに転居し,私は港区立・青南小学校に通うことになった。この学校のOBには大阪万博“太陽の塔”の作者・岡本太郎や,2年先輩には歌人・斎藤茂吉(精神科医)の次男で後に作家になった北 杜夫がおり,戦後,船医として貨物船に乗り込み「どくとるマンボウ航海記(昭和35年刊)」という愉快な紀行文を書き一躍有名になった。同期には山本五十六大将の次女・正子さんがいたし,3年下には俳優の仲代達也がいたらしい(写真1)。
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| 写真 1 青南小・6年生の鎌倉遠足(前列右端・筆者) |
夏休み宿題の自由作品は,全学年のものが大講堂に展示された昆虫標本が多く,私も例外でなく,春から秋にかけての休日は高尾山近辺に昆虫採集(特に蝶)に出掛けることが多かった。北さんも同じ趣味で,一度お宅にお邪魔して夥しい数の標本を見せて貰ったことがあった。この趣味は医師となってから復活し,子どもや孫たちと一緒に奄美・沖縄方面へ頻回に採取に出かけた。
父は昭和16年6月にベルリン大使館・駐在武官室に転勤となり,同年12月の6年生の時,日中戦争から遂に日米戦争に拡大し大変なことになった。その後父はハンガリー駐在武官・陸軍少将となり,ドイツ敗戦後はモスクワに滞在,ソ連が対日参戦する1週間前に奇跡的に帰国した。
担任の岩瀬先生は新婚のホヤホヤの元気な方で,級友も皆勉強が良くできた。今年の6月6日には老舗レストランの“銀座天てん國くに”で米寿記念のクラス会するというので出席した。既に鬼籍に入っている級友が多く,集まったのは僅か7人であったが,都立大・理学部長だったK君,メキシコやフィリッピン大使を勤めたT君,東電の原発開発の担当者だったN君などに会えて話が弾み楽しかった。
昭和17年4月,難関校・東京府立一中(現・都立日比谷高校)に合格できて嬉しかった。この学校は約130年前の明治11年創立で,尾崎紅葉,夏目漱石,谷崎潤一郎などの文豪や,日本画の横山大観などがOBである。当時一本しかなかった地下鉄銀座線の表参道駅から赤坂見附まで行き,通称・地獄(遅刻)坂を上って山王山の丘に建つ学校まで通学した。裏隣には国会議事堂が聳えていた。
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写真 2 日比谷高校創立百周年記念像
「星陵 われらあり」昭和55年撮影
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写真 3 大阪陸幼・山田乙三大将の査閲(昭和18年)
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写真 4 大阪陸幼跡地の国立大阪南医療センター
(平成28年10月撮影)
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生徒は東京市内の小学校トップグループにいたのが殆どで,先生も参考書を書くようなベテランが多く,一中,一高,東大というお決まりのコースを目指した。しかし戦局は緒戦の真珠湾大勝利に対し,6カ月後のミッドウェイ海戦で大敗したらしく,私は負けたら大変という気持ちから,父の後を継いで軍人になることを考え,1年修了後,陸軍幼年学校(陸幼)を受験することを決めた。しかし母は私の体があまり丈夫でないので,軍医になる道を勧めていた。翌18年3月陸幼に合格し大阪の学校に配属された。一中生としては異端児であったが,級友達は「簡単に戦死などするなよ,陸軍大将になるまで頑張れ」と激励してくれた(写真2)。
陸幼は6校あり私が配属された大阪陸幼で,1クラス30人の級友は午前に中学と同じ教科を学び,午後は柔・剣道,体操,軍事教練などの術科で鍛えられた。術科は全国の連隊から選ばれた優秀な下士官が担当した。小銃と銃剣が貸与されたが,小さい体には重く辛かった。親代わりの担任生徒監は皆陸幼出身で,私の担任の荒田少佐は,加治木中学先輩の父のことも知っておられた。戦後,鹿大第二内科の佐藤八郎教授と同級生だと分かり驚いた。日常生活は各学年毎に生徒舎で過ごし,12人の寝室には3年生から選ばれた指導生徒が1人配属され,軍人らしくなるよう徹底的に躾けられた。暴力は禁止され叩かれたことは一度もなく,兄貴のような存在だった(写真3〜4)。
太平洋戦争の戦局は厳しく,昭和20年8月,3年生の時にポツダム宣言を受諾し降伏した。学校は閉鎖され失意の内に父母の郷里の鹿児島に帰り,中学4年に編入された。翌21年3月,七高を受験して幸い合格したが,鶴丸城址の校舎は焼失しており,出水海軍航空隊跡の兵舎を利用して授業が始まった。1年生は東・西・南の3寮に分かれて生活し,生徒は陸士,海兵の年配の復員学徒が多く,中学4年修了者は少なかった。食糧事情は凄く悪く,カライモ雑炊に米が少し混ざったのが多かった。それでもみな向学心に燃え,授業が終わって寮に帰れば,焦土と化した日本を復興させるにはいかにすべきかなど口角泡を飛ばして議論した。マルクス関係の本が解禁されたので,共産主義的発想が多かった。
その他,野球の対寮マッチで激しく戦ったり,夜間北辰斜めを歌いながら,他寮に訪問ストームをかけて踊り狂ったりした。私は西寮だったが,同期でLEDノーベル賞の赤崎 勇さんは東寮にいたと聞いた(写真5)。
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| 写真 5 七高西寮の1年生(出水市・昭和21年10月) |
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写真 6 七高2年生(鹿児島市鶴丸城跡・中央筆者)
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写真 7 国立南九州中央病院(平成3年10月撮影)
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写真 8 平成20年新装改築された阿久根市民病院
(現・出水郡医師会広域医療センター)
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翌年2年生の時,鹿児島の鶴丸城跡に復帰できて嬉しかった(写真6)。しかし昭和23年秋,卒業を目の前にして結核で倒れてしまった。当時はまだストマイなど治療薬はなく,大気,安静,栄養療法でひたすら寝てるしかなかった。学制改革で七高が無くなったのが凄く悲しかった。後にストマイなど特効薬ができたが,私には効果が弱く健康回復に10年を要してしまった。
これからどう生きるかが大問題になったが,自分の健康管理は医師になるしか無いと思い,鹿大の医学部を受けたら合格できた。ただ級友との年齢差が気になっていたが,10年間冬眠していて年を取らなかった事にすればいい,と考えたらクラスに溶け込めて,6年間楽しく勉強ができて本当に良かった。
卒後は鹿児島市立病院で1年間のインターン終了後,鹿大第二内科(佐藤八郎教授)に入局,「ソテツ毒の発がん性の研究」で学位を得た。やがて医学部が桜ヶ丘キャンパスに移転したので,跡地に勤務していた伊敷の国立鹿児島病院が移って南九州中央病院(現・鹿児島医療センター)として生まれ変わった(写真7)。私は研究検査科長兼内科医として勤務したが,東京の国立がんセンターで早期胃がんと白血病診療の研修を受けた。
厚生省は昭和61年全国で239あった国立病院・療養所を統合・移譲で再編成して74減らし,結核診療を主対象の療養所や,300床以下の小規模病院を無くす計画を立てた。翌年春,私は対象の一つになっていた国療・阿久根病院に院長として転勤することになった。
勤務2年目に入った時,突然,出水郡医師会が移譲を受けたいと申し出があってから,職員組合の猛反対で大変なことになった。この組合は「全医労」という強力な全国的組織を持ち,東京本部,九州および鹿児島支部から阿久根常駐の専従組合員を派遣してきた。そして阿久根市民を巻き込み,病院職員を扇動して,しばしば徹夜におよぶ組合交渉を要求して移譲反対を叫んだので,院長以下幹部は通常の仕事ができなくなった。また社会党や共産党国会議員が調査団を作って訪れ,幹部は対応に追われた。私は厚生省の方針には従うと頑張ったので,遂に平成元年10月1日深夜に,厚生省幹部立ち会いのもと,私が花北出水郡医師会長に病院のマスターキーを渡して移譲が完了した。病院前広場には数百人の他国立病院の支援者が,バスで乗り付けた医師会職員達に罵声を浴びせていた。翌日のNHK全国ニュースでは,移譲第一号となった阿久根病院の「深夜の交代劇」として大きく報じた。東京の小学校恩師の岩瀬先生から「いまニュースを見たが大丈夫か」と電話が来たので驚いた。職員達は医師会立・阿久根市民病院に就職したり(写真8),他国立病院に転勤となった。再編成対象の病院職員は,いくら反対しても厚生省は再編成をやるのだと分かり,その後は反対もなく数年で一応完了した。私は鹿児島市のもとの国立病院の副院長として戻り,さらに指宿病院・院長として転じて,平成7年定年退職した。
その後は級友の大勝洋祐先生の経営する老健施設や病院に勤務することになった。連休を利用して長年の夢だった“世界遺産めぐり”と称して家内と海外旅行に出掛け,43カ国を訪問できて満足している。
過去を振り返って七転八起の人生だった気がするが,元気で今日までこれたのは家内の内助の功が大きいと感謝の気持ちで一杯だ。家内は料理が得意のグルメで,各分野に亘る話題が豊富,ユーモアに溢れ,自分を自称雑学博士だといって周りを楽しませる性格で,医学部卒業の1年前に結婚した。披露宴には担任の佐藤八郎先生が主賓として出席していただいて有難いことだった。また天文館の“いろは”でクラス歓迎会をしてくれたのが忘れられない。また今年の6月17日に城山観光ホテルで,私の米寿の祝いを兼ねたクラス会が開かれ,出席の皆さんから祝福の言葉を沢山いただいて本当に幸せだった。

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