[緑陰随筆特集]

我が家の子育て奮闘記
〜「愛情」について私が思うこと〜

     県言語聴覚士会 瑞穂 哲也

 初めに,私のところにこの文章投稿の依頼が来た時,正直お断りをしようと思っていました。その理由については色々ありましたが,一番の理由は,「人に読んでもらえる程の文章を自分に書けるはずがない。」と思っていたからです。ただ逆にお断りをする理由もなく,妻にこの依頼が来た事を相談しましたが,思いの他前向きな返答が返ってきた為,投稿することを承諾しました。何分文章下手な為読みにくい文章や不適切な表現があるかもしれませんがご了承下さい。
 さて,このような依頼をお引き受けしたことまでは良かったのですが,特別趣味が多いわけではなく,投稿されている諸先輩方の様に人生経験に富んでいるわけでもありません。また,人に自慢できる様なことも全くない為,投稿経験がある方に相談したところ「何でもいいです。好きなことを書いてください。」との返答をいただきました。このように文章を書くといった経験が乏しい私にとって一番聞きたくない回答が返ってきてしまいました。特に書くことが決まらないまま数日が経ち,夕食の時,目の前に佇む我が子の姿を見て「子どものことでも書いてみよう。」と思いパソコンに向いました。
 我が家の家族構成は妻1人と子ども3人とごくごくありふれた一般的な家庭だと思います。少し他とは違うことと言えば,二世帯住宅であることと子どもが3人とも女の子であるということです。身近な知人からは,「将来が楽しみだね。」と言われることもあります。ただ,将来と言われても私自身の中ではピンと来ない部分も多く,とりあえず今ハッキリしていることと言えば毎日がとにかく騒がしいということです。3人いるのでそれぞれが叫んだり,泣いたり,ケンカしたりと息つく暇もないほど騒々しいです。仕事の通勤でたまに仲良く通勤している親子を目にすることがありますが,そういう親子を見ていると皮肉にも「親ばかだなー」と思う節が多々あります。自分自身,愛情表現が苦手と言うこともありますが,見ているこちらが恥ずかしくなる様な親もたくさんいます。
 「親ばか」と言う言葉を広辞苑で調べてみると「親が子に対する愛情に溺れ,傍目には愚かなことをして,自分では気付かないこと」との記載がありました。私は親である前に一人の個人である為やはり周りの目が気になってしまいます。そのことを考えると私は一生「親ばか」と呼ばれる人種にはなれないだろうと感じてしまいます。それどころか私の場合,傍から見たら子どもに対して怒っていることが多く,妻からは,「子どものことが嫌いなんじゃないの?」と言われてしまうこともあります。勿論,子どものことが嫌いなわけではありません。先にもあげた通り愛情表現が苦手ということもありますが,子どもが他所様に対して迷惑を掛けないように真剣に考え,怒っているつもりなのです。しかし,さすがに一番身近にいる妻からそう言われてしまうと「本当に子どもの為なのか。」と自分自身疑ってしまうことがあります。そこで,折角このような機会をいただいたので,今まであまり考えないようにしてきた自分の家族に対する愛情の度合いを考えてみようと思います。但し,宗教的な考え等は一切排除し,重たい感じではなくお気楽な感じで書いてみようと思います。
 愛情の度合いを考える為に,愛情という言葉を広辞苑で調べてみると「相手に注ぐ愛の気持ち。深く愛する暖かな心。」とあります。また,同様に愛とは,「相手への思いやり。慈しみあう心。」との記載がありました。そこで今回は,「家族への思いやりをどれだけ家族に注ぐことができるのか?」と言うことで愛情の度合いを考えてみることにしました。
 結婚カウンセラーのゲイリー・チャップマンによると愛を伝える方法は5つあり,@愛してるやありがとう,かわいいなどのような「肯定的な言葉」。Aデートや外食などのような上質な時間を一緒に過ごす「クオリティータイム」。B手紙,花などを相手にあげる「贈り物」。C相手のために何かしてあげる,喜ばせると言った「サービス行為」。D相手の体に触れる「身体的なタッチ」。といった方法があるようです。難しいことにこれらについてはコミュニケーションと同じで一方通行になってしまうと逆に相手から嫌われたり,煙たがられてしまう為,注意しないといけない所です。もしかしたら5つの愛の方法の価値観の一致が恋愛を成就するためのポイントなのかも知れません。
 さて,話を少し戻しまして私の今までの行動を5つの愛を伝える方法で分析しますと,@「肯定的な言葉」については,今は仕事柄色々な意見を言えるように努力しておりますが,元来口下手で,恥ずかしがり屋である為「肯定的な言葉」というものはなかなか言えません。それどころか萎縮してしまい,からかってしまうことが多いかも知れません。小学生が好きな子をからかう感じでしょうか。お恥ずかしい話,小学生並みの言葉掛けしかできない為「肯定的な言葉」によって愛を伝えることは苦手ということです。私が妻から「子どものことが嫌いなんじゃないの?」と思われる所以はここにあるのかも知れません。A「クオリティータイム」については,比較的好きな方です。仕事が休みの度に「どこかに行きたいなぁ。」と考えています。「どこに?」というのが特にない為,お預けになってしまうことが多いのですが,家族でどこかに出かけることは好きで,近所への買い物も「買い物行くだけだから家にいてもいいよ。」と妻によく言われるのですが特に当てもなくついていくことが多いです。勿論,一人で買い物に行くなんてことは稀にしかありませんし,友人・知人と買い物に出かけるなんてことは働き出してからは,ほとんどない為,買い物好きというわけでもありません。特に子どもたちや妻と多くのことを語るわけでもなく,ただ少しでも一緒に居る時間が作れればと思い,できる限りついていく様にしています。B「贈り物」については,言うまでもありませんが,誕生日,クリスマス,お正月等,様々な場面で事ある度に買っている気がします。これは妻に対しても同様で比較的贈り物は多いのではないかと自負しています。最も私自身単純な人間なので,それくらいしか思いつかないというのが本音だと思います。その為,買い物に行く時は極力妻や子どもたちが目を留めているものをチェックするようにしています。C「サービス行為」については,あまりピンときませんが宿題をみるとか習い事に連れて行くと言ったことになるのでしょうか。妻に対するサービス行為の様な気もしますが,親が子にしてあげるのは極当たり前のことと思っているので色々考えたのですが良く分かりません。また,妻に対するといっても,やはりあまりピンとこず,洗濯物を干す,たたむ,掃除機をかける等は共働きをしている為,できる限り手伝うようにはしているつもりです。D「身体的タッチ」については私以外全員女性ということもあり少し躊躇してしまいます。正直な所少ないかも知れません。髪の毛を乾かすことは良くやりますが,これはどうなのでしょうか。何人かには話をした覚えがありますが,私は男ばかりの家庭で育ってきて,高校も男子校,女性経験も少なく,結婚するまで女性に接する機会が他の方よりも少なかった気がします。そのせいか例え我が子であってもどのように接すればよいのか分からない場面も多く,特に遊びとなると何をすればいいのか皆目検討もつかないことだらけで悪戦苦闘している毎日です。
 このように「愛を伝える5つの方法」にのっとり自分の行動を考えてきましたが,「肯定的な言葉」,「身体的タッチ」は苦手で十分とはいえませんが,その他については少なからず愛を注いでおり,愛情を持って接する様に努めている方なのではないかと思います。ものすごく偏りはあるかも知れませんが,前にもあげた通り,コミュニケーション同様相手の受け取り方次第で変化するものなので慢心はできません。また,この考え自体「今できる愛情」であり,「将来残していける愛情」ではない為,今度は「将来残していける愛情」についても少し考えてみようと思います。
 例えば,ある日子どもが泣きながら帰ってきたとします。泣いている理由は「お友達に嫌なことをされた。」とのこと。皆さんならどうするでしょうか。中には「可愛そうに,我が子に嫌なことをするなんて許せない」,「今度やられたら言いなさい。学校の先生に言ってあげるから。」などというのかもしれない。また,人によっては相手の家に乗り込み,文句を言う親もいるかも知れません。どれが正解かは分かりませんが,私の場合「情けない。やられたらやり返せ。やられた時が肝心。」と我が子を怒るかも知れません。理由は,人の痛みを我が子にも気付いて欲しいこと。相手の子どもも善悪の判断ができず,どのように接すれば良いのか良く分からずに,接してきたのかも知れないので,「自分がこうされると嫌だ」ということを口に出して具体的に講義することで,人の痛みを分かる様になるのではないか。また,口に出さずに黙っているとネガティブな感情だけが残ってしまい,解決方法を模索しなくなってしまうのではないかと思うからです。もう1つの理由は,どんな逆境であっても自分の意見をしっかり言える人間になってもらいたいと思うからです。勿論,この一度だけで親の思惑通りになる筈がないので,一貫した姿勢で長い年月をかけて子どもに教える必要があるとは思います。
 また,こういう場合はどうだろうか。
 今年小学1年生の子が以前から「バレエを習いたい」と良く言っている。最近はそろそろ習わせてもいいと思っていますが妻は以前から「習わせてあげたい」とずっと話していました。「子どもの才能を伸ばす」と言う点では早くから習い事を習わせた方が才能の芽が出るということは勿論知っているつもりです。恐らく妻はそれ以外の理由もあって通わせてあげたいと言っていたのだろうということも分かっているつもりです。それでも私が習い事を渋っていた理由は,この子の性格や体質にあります。まずこの子は,姉や妹と違い優しい子ということです。バレエなどの競技の世界は他人を蹴落としてでも自分をアピールしないといけません。次女にはこれが決定的にかけていると思うからです。二つ目の理由は,自己決定能力が欠けていること。次女は良くも悪くも他人に合わせる性格です。本当に自分の意思で習いたいと言っているのかそれとも,お友達やお姉ちゃんが習っているのが羨ましくて何となく習いたいと言っていたのかが分からなかったからです。習い事を始めてすぐやめてしまっては意味がありません。三つ目の理由が「将来」にも関わってくるのですが,次女は脊柱側弯症を患っていること。普通の子でも怪我が多い世界。脊柱側弯がある状態で無理な動きを永年続ければ,成長に悪影響を及ぼさないか心配だったのです。その為,小学校に入り,ある程度骨格の発育が進み,学校の生活にも慣れてきた頃に習わせるべきではないかと思ったからです。「先がまだまだ遠い子どもにとってここで無理をしたら,本当に好きなことができなくなってしまうのでは」と思うと中々習わせてあげることができなかったのです。今は主治医にも「スポーツはしてもいい」と言われていますし,小学校にも入学して生活に慣れてきた為,習わせて良いと思っています。
 これらのことをまとめると私自身としてはそれなりに子どもに対して愛情を注いでいるのではないかと思います。押し付けがましいところはあると思いますが,子どもの成長のこともしっかり考えているつもりです。満点とは言えないと思いますが少なくとも「子どものことが本当は嫌い」と言うことはないのだろうと思っています。
 私は自分自身が「出来た親である。」とはお世辞にも言えないということは分かっています。偉い人たちが言うように,「怒らないで子どもを育てる」と言うことが一番いい子育て方法かも知れません。ですが,親である前に一人の人間。「仏の顔も三度まで」という言葉があるように全て笑って許すことは今までなかったですし,これからもないだろうと思います。このことを考えると親が選べない子どもたちは本当にかわいそうだと思います。ただ,親にも個性があるように,子どもたちにも個性があります。中には「怒る」ことをしないと,言うことを聞かない子どもがいることも事実。親の言うことが全て正しいわけではないし,言うことを聴く人形になれという意味でもありません。確実に言えることは,子どもたちにとって頼れる存在は親だけであるということ。その親の中には,少なからず私のような万能ではない親もいる。そんな親に育てられるのだから,鳶が鷹を産まない限り蛙の子が蛙になるのは至極当然なのではないでしょうか。だからこそ怒るときは怒る理由を良く考え将来の子どもたちが今の私たち夫婦よりもより良い生活ができるように愛情を持って接する必要があるのだと思います。その結果「鳶が鷹を生んだ」と言ってもらえるような子どもになって欲しいと心から願わずにはいられません。
 子どもはまだ何が善で何が悪か分からないことが多いです。親もその全てを知っているわけではないと思いますが,そのことをしっかりと教えてあげることが「将来の子どもたちに残してあげられること」で子どもたちに対する愛情ではないかと思います。この場合子どもからすれば,「余計なお世話」,「人事だと思って」などと感じているのだとは思いますが,これこそ「親の心子知らず」というものだろうと割り切り子どもたちと接しようと思っています。
 最後に,人間行動学の権威と呼ばれているジョン・F・ディマティーニ博士によれば,「どんな親も深い部分では子どもを愛していて,この世界に子どもを愛していない親など一人もいない。」と述べている。私は人間行動学を学んではいませんし,偉そうなことを語るほど,できた人間ではありませんが,巷で起こっている家庭内の事件,子どもを手にかける親,親を手にかける子ども,強いては夫婦間も「愛情を注ぐ側」と「愛情を受け取る側」の相違で「愛されていない,嫌われている。」と勘違いをしてしまい,それが永年積み重なって耐え切れなくなり,取り返しのつかない過ちを犯してしまうのかもしれません。もし,そうであるとすればとても残念でなりません。私はそうならないことを願い,今までと変わらない「愛情」をこれからも続けていくことでしょう。



このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2017