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写真1 左:展示場入り口,右:チケット
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写真2 ギザのピラミッド
左:カフラー王,右:クフ王
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写真3 左:中央の黒い穴が入り口
右:中の通路
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写真4 ラクダに乗って
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写真5 アブシンベル大神殿
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写真6 同上の小神殿
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写真7 ルクソール神殿
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写真8 ハトシェプスト女王葬祭殿の第二テラス
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写真8 ハトシェプスト女王葬祭殿の第二テラス
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写真10 エジプト考古学博物館
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写真11 同上の1階部分
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写真12 上:ツタンカーメン王のマスク
下:第三人型棺
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写真13 ツタンカーメン王の黄金の玉座
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平成7年3月,30年間勤めた国立病院を指宿病院を最後に定年退職したのを記念に,海外旅行に行くことにした。それまでヨーロッパは2回行っているので,ちょっと変わった国としてエジプト,トルコ,ギリシャを選んだ。ちょうどいいツアーがあり,家内と家内の姉2人同伴の4人で,4月20日から12日間の旅に出た。中でもエジプトは6日間滞在し,その歴史に深い感銘を受けた。
それから約20年経過したが,平成28年7月半ばから9月の初めまで鹿児島市の黎明館で,エジプト考古学の権威・吉村作治早大名誉教授監修の「黄金のファラオと大ピラミッド展」が開催され,主催のMBC南日本放送で盛んに宣伝していたので行ってみることにした。8月24日の真夏の暑い日で,私が入館した数人あとの少年がちょうど5万人目で,記念に分厚い展示物写真集をもらって喜んでいた。館内は写真撮影禁止で,残り少ない夏休み宿題の自由研究を仕上げるためか,大勢の子供達が展示物の説明文を書き写していた。展示品はカイロのエジプト考古学博物館から借用した103点で,ファラオや王族達の黒色の立像や座像,身に着けていた装飾品,彩色木棺などであるが,目玉はアメンエムオペト王の黄金に輝くマスクであった(写真1)。ピラミッドの数は10基近くあり,年代によって形が違うことが写真によって説明されていた。10分程のエジプトの歴史の映画説明もあり分かりやすかった。
エジプト旅行は成田空港からイスタンブール経由でエジプトの首都カイロに飛び,夜間にラムセス・ヒルトン・ホテルで旅装を解いた。ラムセスというのは建築王ラムセス2世(在位BC1279〜1212)のことで,古代エジプトで最も栄えた時代である。カイロ郊外ギザには三大ピラミッドがあり,街からも頂上が遠望できるほど巨大である。翌朝,早速観光に出掛けたが古王国時代の一番大きなクフ王(BC2589〜2566)の高さ137m,四角錐の1辺は230m,大小の石230万個を積み上げたピラミッドを仰ぎ見て,ただただ驚嘆するほかなかった(写真2)。
底部に近い所に盗掘跡の穴があり,幅2mの意外と広い大回廊を伝って遺体があった玄室まで辿ることができた(写真3)。付近には観光用にラクダが待機しており,家内と同乗することにした。4脚を折って座っていたラクダに乗ったら,前脚から急に立ち上がったので転落しそうになり,慌てて前の家内にしがみついたら家内が悲鳴を上げた。危うく2人とも転落して大怪我をするところで,ラクダは馬よりずっと脚が長いことを悟った(写真4)。午後は世界的に有名なエジプト考古学博物館を見学したが,報告は最後に回したいと思う。
カイロからナイル川を約1,400km遡ったスーダンの国境近くに,アブ・シンベルの町がある。1960年,そこより300km手前のアスワンでダムを建設することになり,ラムセス2世が建設したアブ・シンベル大神殿が水没することになった。ユネスコではこの貴重な神殿をなんとか救おうと世界中に呼びかけ,崩れやすい砂岩に掘られた神殿を手作業により1,000以上のブロックに切り分け,苦労の末1968年に200m離れた高さ65mの丘の上に移転させ,世紀の大引っ越しは終了した。この大成功がユネスコにより世界遺産認定を制度化するきっかけとなった。今回の旅行の目的の一つにここを是非見てみたいという夢があったので,カイロからアブシンベルに飛んだ。
空港からバスで神殿に着くと,青々とした水を湛えたダム湖の脇に,ひと山もある黄褐色の大神殿が聳え立ち,巨大なラムセス2世の3座像が正面を睨んでいた。像の一つは頭部が落下したまま無造作に地面に転がっていた(写真5)。大神殿の右隣には王4体と王妃2体の立像が並んだ小神殿があり(写真6),両神殿の凄さに圧倒され,はるばるやってきて本当に良かったと思った。大神殿の奥にはラムセス2世の等身大座像があり,年2回ここまで太陽光が差し込むという。つまり3,000年も昔なのに天体の動きや暦がよく分かっていたらしい。
午後,ナイル川を少し後戻りしてアスワンのダム湖の小島に浮かぶ素敵なオベロイ・ホテルに船で渡り1泊。翌朝,更にカイロから670km離れたルクソールまで戻った。ルクソール(古称・テーベ)は3,500年前,新王国時代のトトメス1世(BC1524〜1518)がカルナック大神殿を築いた所で,ハトシェプスト女王(BC1498〜1483),ツタンカーメン王(BC1334〜1325)やラムセス2世など第18〜19期王朝の都として栄えた。
カルナック大神殿はかなり大規模で数代にわたるファラオのオベリスクや大列柱室があり見ごたえがあった。ルクソール神殿は後にラムセス2世がカルナック副神殿として建てた小規模のものだが,両者は2kmに及ぶ参道で結ばれ,オペトの祭では神官や多数の住民が練り歩いたという。ルクソール神殿の第一塔門には対になったオベリスクとラムセス2世の座像が置かれていたが,現在右側のオベリスクはなく(写真7),1819年に切り取られてフランスに贈られ,パリのコンコルド広場に聳えているが,代わりにカイロのムハンマド・アリ・モスクに飾ってある大時計をもらったという。
ナイル川を挟んでルクソールの東側が「生の都」とすれば,西側は「死の街」として「王家の谷」にはたくさんの王墓がある。東側の観光を終えるとほとんどの人は,砂漠で人家も商店もまばらな西岸に船で渡り王家の谷を目指す。途中必ず寄っていくのがハトシェプスト女王葬祭殿である。
この葬祭殿は切り立った禿山をバックに3層建築からなり,広いテラスはオープン階段によって結ばれている。トトメス2世と王妃ハトシェプストの間には子ができず,王が若死にしたあと側室の子トトメス3世が6歳で即位した。しばらくは王妃が後見人として幼い王を助けたが,やがて自ら女王となり権勢を振るい,3層階には男装した女王の立像が数体あった。女王の死後はトトメス3世が権力を取り戻した。
ここを訪問した2年後(平成9年11月),約200人の観光客が突然イスラム過激派のテロリストに襲われた。大部分が第二テラスにいたが(写真8),階段を占領されたので5m下の地上に飛び降りることができず,日本人10人を含む61人が殺害され85人が負傷した。逃亡した犯人6人は警官隊と銃撃戦となり全員射殺された。
葬祭殿背部の山の裏側が「王家の谷」で車で移動した。ここには新王国時代の王墓24を含む64の墓が発見されているが,ほとんどの墓は盗掘にあい遺物は残っていない。しかし1922(大正11)年11月,英国のカーナボン卿の支援を得た考古学者ハワード・カーターが,長年探し求めていたツタンカーメン王の墓をついに発見した。しかも盗掘を免れていて黄金の財宝がたくさん残されていて世紀の大発見と騒がれた。
観光客には数カ所の王墓が見学できるが,もちろん,19歳の若さで謎の死を遂げたツタンカーメン王の墓が一番人気がある。地下に降りる入り口(写真9)からトンネル状の通路を進むと柵で仕切られた玄室に到着する。8畳程の広さで手前にガラスで蓋をされた石棺があり,中には3重の人型棺の一番外側の第一人型棺に納まった王のミイラが置かれていた。北側の広い壁には,ツタンカーメン王が女神と会話する色彩豊かな絵画が描かれていたが,カビで黒いシミも多かった。残念なことに撮影禁止で,ただ異様な雰囲気に飲み込まれて,しばし呆然として眺めている他なかった。
カイロのエジプト考古学博物館は1902年開館で,20万点に及ぶ収蔵品を誇っている(写真10)。1階(写真11)は各年代のファラオ関係の遺物,2階は約2千点のツタンカーメン王墓の副葬品の展示で,中でも純金製で重さ11kgの王のマスクと,それを被ったミイラを納めていた黄金の第三人型棺(重さ110kg)と(写真12),仲睦まじい王妃との語らいを描いた黄金の玉座(写真13)などが目玉で写真も撮りにくかった(現在は撮影禁止らしい)。
最近の話題で2015,2016年の2回,玄室の北面をレーダースキャンしたら壁の向こう側に通路か部屋のような空間があり,クレオパトラと並んで絶世の美女と言われているツタンカーメンの義母・ネフェルティティの玄室があるのではないかと疑われている。その真偽のほどはまだ分からない。
エジプト訪問は人類文化の源流を探る貴重な経験の一つとなった。

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