=== 新春随筆 ===

             還 暦 の 感 慨 
           −白壁彦夫先生の思い出とともに−

                      
(昭和32年生)



南区・谷山支部
(尾辻クリニック内科胃腸科) 尾辻 真人

 子供の頃,絵本で覚えた童謡がある。「船頭さん」という歌で「村の渡しの船頭さんは今年六十のおーじいさんー」で始まる。「そーかー。六十はおじいさんなのかー」などと幼心に思っていたが,今年ついに我が身にやってくるのである。
しかし多くの先輩方が感じたであろう印象と同様,今までは還暦を人生の区切りとして意識することはなかった。齢48で開業して10数年。積み上がった借金を減らすべくひたすら診療に追われる日々でゆっくりと来し方行く末に思いを凝らす余裕がなかったのが主な理由だろう。
その一方でよく考えると,日本人男性の平均寿命は80.21歳そして健康寿命は71.19歳(2013年)であるから,残された時間のことに気づくと,なんと行き当たりばったりの人生であったかと考え込んでしまう。
話は変わるが,私にはちょっと時間オタク,過去オタクの一面があって少年期にはタイムトラベルもののテレビ番組や小説を好み,「タイムトンネル」などを食い入るように見た覚えがある。今はDVDが手に入るので,見返してみると,50年前の作品であるため,ちょっとストーリーなどに粗が目立つが,やはり時間を自由に行き来できる展開,そして20世紀FOX映画から流用した豪華な映像に見入ってしまう(26本あるシリーズで日本未放映が2作品あるが,この2本では50年前に日本人[有色人種]への偏見が今よりはるかにアメリカにあったことを感じ取れる)。この好みは未だに続き,今は司馬遼太郎の「街道をゆく」などを熟読玩味している。
 趣味のことはさておき,記憶の中ではタイムトラベルは可能だから,消化器内科医としての過去をたどってみたい。
東邦大学での学生時代に柳田邦男の「ガン回廊の朝」を読み,その中で白壁彦夫先生の消化管二重造影法開発の件(くだり)に心を引かれた。卒業を前に鹿児島大学第2内科の助教授をしていた父に相談すると「なんだ。うちの政 信太郎先生が一緒に仕事をしている先生じゃないか。東京にいるよりも近いぞ。早く帰って来い」の鶴の一声で昭和57年に鹿児島大学第2内科に入局した。
政・西俣グループは厳しかった。拘束時間が長く,病理所見を元にひたすら切除手術標本のマクロ像を眺め,消化管の標本にバリウムを詰めて撮影した画像(レントゲノグラム),そして術前のX線フィルム,内視鏡画像との対比を行い,一例一例症例検討会で頭にたたき込むという作業を繰り返すのである。レントゲンの二重造影法は,私にとってモノにするにも読影にも時間を要し,自分には向いていないのではなどと自問したことが何度もあった。しかし今になってみるとあの頃やっていたことの財産で開業医としての日常を送れていることに気づき,政・西俣グループの恩師・先輩方に心から感謝している。
昭和61年になり,東京都がん検診センター(都がん)への出張を命じられた。所長は順天堂大学教授と掛け持ちの白壁先生,副所長はその弟子筋の西澤 護先生である。ここではレントゲンの二重造影像でスクリーニングに難渋していた食道癌の早期発見の為,いち早く細径パンエンドスコープ(直視のファイバースコープ)を導入。1日に50,60人をさばき,続々と早期の食道癌を拾い上げていた。この頃は消化管の癌の拾い上げにレントゲンか内視鏡かと二者択一の議論が学会で侃々諤々と繰り広げられていた時代であったため,レントゲン二重造影法のお膝元で内視鏡での成果が出ているその柔軟さに目から鱗が落ちる思いであった。もちろん発見された早期食道癌の精密レントゲン像が撮影され,それを拾い上げのルーティンX線像に還元する作業が標本との対比と共に日々なされており,それらの症例は大変貴重なものであり,自分の財産となっている。
またあこがれ(?)の白壁先生と宴席を同じくする機会にも恵まれた。たしか昭和62年の晩春の頃,白壁先生の教授退任祝いの席であったろうと思う。都がん消化器内科の先生方と銀座方面へ出かけた。そこでものすごい光景を目の当たりにした。2次会でカウンターのあるバーを貸し切って飲んでいた。そこで泥酔した都がんのある先生(出身は白壁先生とは別の大学)があろうことか年上の白壁先生を「しらかべーー!」と呼び捨てにし始めたのである。さらに白壁先生の頭をピシャピシャと叩き始め。「おまえは偉そうにしているが,本当に偉いのか?」などと毒づいている。息を呑んで見守る我々を尻目にその叩き方はエスカレート。最初は座興と受け流していた白壁先生も怒りはじめ,「おまえはインドの乞食だぁー(叩いた先生は英会話が得意であったが,和文英訳はさほど秀でていない。インドに行けば英語ぐらい乞食でも喋っていると白壁先生の評価)!」と反撃。慌てた西澤先生が間に入るも,白壁先生の旗色が悪く,バーのカウンターを飛び越えて内側に避難された。東京はすごいなぁーと強い印象を持った。
この頃からすでに30年が過ぎた。思い出は尽きないが,紙数も尽きた。
行き当たりばったりではあったが,自分がやってきたことを開業医としての日常診療に生かし,継続できていることは大変な幸運ではないかと考えられるようになった。幸い健康にも恵まれ日々を送っている。修身の教えではないが,丈夫な体に産んでくれた亡き両親に感謝しつつ還暦を迎える新年になりそうである。
 結びに,会員の先生方にとりまして,本年が実り多き素晴らしい年でありますことを祈念いたします。
 今後ともご指導ご鞭撻のほど何とぞよろしくお願い申しあげます。




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