[緑陰随筆特集]
フランツ・シーボルトゆかりの地の散策
−没後150年に寄せて−
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写真 1 シーボルト肖像
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今年(2016)は,ドイツ人医師でオランダ商館医師として来日し,わが国への近代西洋医学導入に貢献し,各種の日本研究の成果を欧米諸国に紹介したシーボルト(ズイーボルト:東フランケン語での発音)(Philipp
Franz Jonkheer Balthasar von Siebold)(1796−1866)(写真1)の没後150年に当たる。そこで,彼の足跡を振り返り,訪れた若干のゆかりの地の思い出を記してみたい。
シーボルトの足跡の概要
シーボルトは,神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルグの医学界の名門の家で生まれた。祖父はヴュルツブルグ大学医学部産婦人科医師で近代産婦人科学の先駆者と評され,父親は同大学の内科学・生理学教授であった。
1815年にヴュルツブルグ大学医学部に入学して医学をはじめ動物,植物,地理などを学んだ。大学在学中に解剖学教授のデリンガー教授宅に寄寓した縁で植物学者のネース・フォン・エーゼンベックの知遇を得て植物学に目覚めた。
1820年に卒業し(24歳),東洋研究を志して1822年にオランダのハーグへ赴き,7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となった。
≪シーボルトの来日≫
1822年9月,ロッテルダムから出航して1823年6月に来日して(27歳),長崎出島のオランダ商館医となった。出島内で開業後,1824年には鳴滝塾を開設し(28歳),診療のかたわら西洋医学(蘭学)・博物学等の教育を行い,高野長英・戸塚静海・伊東玄朴・二宮敬作・小関三英・伊藤圭介などの塾生を育てた。他方,日本の地理・生物・気象・天文・民俗など多岐にわたる事物を調査・研究・収集してオランダへ発送した。この間,楠本 滝との間に娘イネをもうけ(31歳),アジサイの新種を記載した際に,「おたきさん」の名にちなみ,Hydrangea otakusaと命名している。
≪帰国と再来日≫
1828年に帰国する際に先発した船が難破し,積み荷の中から幕府禁制の日本地図があったことが問題となり(シーボルト事件),翌年国外追放処分となった(33歳)。
1830年にオランダに帰着。1832年(36歳)にライデンでコレクションを展示した「日本博物館」を開設した。同年にオランダ政府の後援で日本研究を集大成した全7巻の「日本」の刊行を開始し,「日本動物誌」(1833),「日本植物誌」(1835)などを次々刊行して日本学の祖としての名声を高めた。
1845年にドイツ貴族出身の女性ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚(49歳),3男2女をもうけた。
1854年に日本は開国し,1858年には日蘭通商条約が締結され,シーボルトの追放令も解除された。1859年,オランダ貿易会社顧問として再来日し(63歳),1861年には対外交渉のための幕府顧問となった。
≪帰国と死去≫
1862年に幕府の官職を辞して帰国し(66歳),1864年にはオランダ貿易会社の職も辞して故郷ヴュルツブルグに帰った。
シーボルトは,オランダ政府に日本関係コレクションの購入を要請したが断られた。そこで,バイエルン国王ルードヴィヒU世(ノイシュヴァンシュタイン城など建設した国王)に購入を依頼し,ミュンヘンでコレクションの整理に没頭した。1866年,コレクションを展示した「最後の日本博物館」を開催したが,風邪をこじらせて敗血症を併発し,『私は美しき平和な国に行く』と言い残して10月18日に死去したと伝えられている(70歳)。
なお,シーボルトが2度目に来日した際に精力的に収集した日本関係コレクションは,1868年にギャラリー館で展示されることになり,これがその後,旧ミュンヘン民族学博物館(現・ミュンヘン五大陸博物館)設立につながったという。1874年には,バイエルン王国が5千点余といわれるこのコレクションを購入し,ミュンヘン五大陸博物館の所蔵品(シーボルト・コレクション)となっている。
ヴュルツブルグのシーボルトの足跡散策
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写真 2 シーボルト胸像
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シーボルトの足跡を訪ね,彼の生誕地のヴュルツブルグを訪れた。ここには,ユネスコの世界遺産に登録されているレジデンツ(司教館)や市街を一望できるマリエンベルグ要塞などがある。
ヴュルツブルグ中央駅近くには,レントゲン記念館があり,駅の東方には,シーボルト通りや彼が学んだヴュルツブルグ大学があった。また,その近くの小さな環状公園の中には,シーボルトの胸像があった(写真2)。像の台座の裏側には,ドイツ語で「Dein Erforscher Japans」と刻まれていた。
ヴュルツブルグ中央駅からマイン川を越えてマリエンベルグ要塞へ向かう手前のフランクフルター通りの西の先には,1995年に設立され,日本の歴史や芸術・文化を紹介して日独文化交流活動を行っているシーボルト博物館があった(写真3)。館内には,シーボルト家の人々の肖像や歴史的記録,日本紹介資料(写真4),イネの胸像やポスター(写真5)などがあったが,展示はすべてドイツ語で,その詳細を理解することは困難であった。
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写真 3 シーボルト博物館
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写真 4 シーボルトの日本研究
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写真 5 イネのポスター
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長崎のシーボルト宅跡と記念館訪問
長崎には,シーボルトが私塾「鳴滝塾」を開いた国指定史跡シ−ボルト宅跡があり,路面電車で新中川町電停下車徒歩7分の場所にある。そこには,彼の胸像(写真6)のほか,妻の「おたきさん」にちなんだ「オタクサ」の名でヨーロッパに広めた紫陽花やシーボルトの木などが植えられていた。
その隣には,シ−ボルトの生涯や功績を紹介している1989年開設のシーボルト記念館があった(写真7)。この建物は,ライデンにあるシーボルト旧宅をイメージしたものだという。館内には,シーボルトが使った外科道具の複製や処方箋,薬籠,当時の鳴滝塾の写真などが展示されていた。
なお,出島には,シーボルトより以前にオランダ商館付医師として出島に滞在し,日本をヨーロッパに紹介したエンゲルベルト・ケンペル(1651−1716,1690年来日),カール・ツンベルグ(1743−1828,1775年来日)の業績をシーボルトが顕彰し,1826年に設置した記念碑がある(写真8)。
ちなみに,ケンペル,ツンベルグ,シーボルトは「出島の三学者」と評されている。
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写真 6 シーボルト宅跡の胸像
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写真 7 シーボルト記念館
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写真 8 ケンペル・ツンベルグ記念碑
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ミュンヘン南墓地のシーボルトの墓碑
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写真 9 シーボルトの墓碑
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近代衛生学の始祖と評されるペッテンコーフェル(Max von Pettenkofer)の墓は,ミュンヘンで有名人が多数埋葬されている南墓地にあるので,ミュンヘンに立ち寄った機会には,しばしば彼の墓参に訪れた。
その折りに,偶然,ペッテンコーフェルの墓の近くの三十三区十三列5号に,背丈大の立派なシーボルトの墓碑を見つけた。墓碑の正面上方には彼の顔のレリーフが,下方には略歴が刻まれ,裏面の上方には「Erforscher Japans」,下方には漢字で「強哉矯」と刻まれていた(写真9)。
墓碑を子細に観察して,彼の生涯や功績にしばし思いを馳せたことであった。
なお,既述のごとく,ミュンヘン五大陸博物館には,多数のシーボルト・コレクションが保管されているが,時間的制約で訪れる機会がなかったのは,何とも心残りであった。
また,シーボルトゆかりの地や施設としては,オランダ・ライデンの日本博物館シーボルトハウスやライデン王立自然史博物館のほか,日本国内でも日本シーボルト協会など多数あるので,機会があれば訪れてみたいと思っている。
終わりに
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館では,シーボルトの没後150年を記念して,ミュンヘン五大陸博物館所蔵の300点余のシーボルト・コレクションの里帰り企画展示「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」を今年7月12日(火)から9月4日(日)まで開催している。一番の見どころは,シーボルトの死の直前にミュンへンで開催した「最後の日本展示」を再現したコーナーだそうで,この企画展示の内容は,博物館のホームページに紹介されている。
今回の企画展示は,9月13日〜11月6日に江戸東京博物館で,その後,長崎歴史文化博物館(2017年2月17日〜4月2日),名古屋,大阪へと巡回するとのことなので,是非,見学したいと思っている。

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