2月上旬に当院救急部の看護師から東日本大震災の時の救護活動に関して看護部で講演してほしいと依頼されました。しかしその日は出張があったためお断りしたところ後日に延期するということになり,3月17日に講演することになりました。偶然にも震災の救護活動のために鹿児島から宮城県石巻市に向けて出動したのがこの日からちょうど5年前の3月17日だったのです。TVや新聞でも5年の節目(何が節目かわからないという意見もありますが)ということで当時を振り返る特集などを多く目にしましたので,この場を借りて私が経験した救護活動の記憶を振り返ってみることにしました。
当時は鹿児島赤十字病院に勤務していました。もともと災害医療には全く興味がありませんでしたが,3月に神戸でDMAT隊員になるための研修を受ける予定であった別の医師が腰痛でキャンセルしたので代わりに私が研修を受けることになり,3月中旬に1週間スケジュールを全くの空にしていました。その直前の3月11日に東日本大震災が発生し,町が津波に飲み込まれる映像がTVで何度も流れていました。このような中でDMAT研修が中止されるのか全く情報が入ってこないため,とりあえずDMATの装備をホームセンターで購入していましたが店内のTVで福島原発が水素爆発する映像が何度も流れていました。買い物を終えると「震災の第1救護班がまだ決まっていないので候補者を募る」という内容のメールが病院から届きました。もともとDMAT研修のために1週間スケジュールをまるまる空けているわけですからこれで行かないというわけにはいかないと思い,自ら救護班に申し出ました。この時点ではDMATを除いて鹿児島から初めて派遣される救護班で,医師1人,看護師3人,ロジスティックス4人の計8人で構成されました。
こうして3月17日に救護服のまま飛行機に搭乗して羽田空港へ向かいました。キャビンアテンダントの方々から激励のお手紙をいただきました。前日にフェリーで移動した救急車とRVの2台を運転するロジ2人と合流し,東北自動車道に入りました。当時は当然一般車両は進入禁止でした。昼食のため福島県内のサービスエリアに入ると駐車場に救急,消防,警察,自衛隊の車両がびっしり並んでいました。レストランのTVで自衛隊のヘリが原発に放水を繰り返すところを中継していたのでおそらく不測の事態に備えて各機関が近辺に待機していたのだと思います。夕方には宮城県に入りましたが,驚いたのは高速道路にかなり積雪しており,事故車両も多数みられたことです。東北の3月は鹿児島の真冬以上ということをその時初めて気づきました。
夜になってやっと石巻市に到着しましたが,当然市内のほとんどが停電しているので夜間は真っ暗で人気も全くない状態でした。石巻赤十字病院は電気が使える状態でしたが,もう一つの中核病院である石巻市立病院は海岸に近かったため津波で入院患者も職員も多数流され,市内で機能しているのは赤十字病院のみということでした。災害対策本部には各地から参集した救護班がごった返しになっていました。また,部屋や廊下に倒れこむように寝ている職員を多数見かけました。到着報告を済ませると,ロジの女性1人を心のケアチームに貸してほしいと依頼がありました。赤十字の心のケア専門家がすでに1週間活動していましたが,当時最も問題になっていたのは病院の職員もまた被災者であり,しかも救護活動を24時間休むことなく行っているため精神的にも肉体的にも疲労困憊の状態であることでした。そのため職員の心のケアを優先しており,その次は心のケアチーム自体の心のケアを優先しており,患者や遺族のケアまで手が回っていないということでした。当時はまだ引き上げられたご遺体が次々と運ばれてきましたので遺族への対応などもかなり精神的につらかったと思います。ロジの女性は心のケア専門家だったので喜んでお貸ししましたが,のちに彼女と合流した時に青ざめた表情をしていたので我々の活動の中では最も精神的に過酷な任務だったと思います。
多くの職員および救護班が病院内で寝泊まりしているので空きスペースがなく,やむを得ず九州の赤十字救護班は外の狭いテントに3県合同で宿泊することになりました。男女の区別もありませんし,入浴はおろか着替える場所さえありませんので,4日間着たきり雀です。持参した食料はすべて没収されて代わりにレトルトカレー半人前しかもらえなかったり,夜間は-4℃まで冷え込むという過酷な状況でした。特に南国の人間は東北の3月をなめてしまうのかわざわざ夏用の寝袋を用意していたので寒さで一睡もできませんでした。しかし,ラジオでは津波でずぶぬれになってもタオル・着替え・毛布・暖房・食料・照明も一切なく,救護されるまで極寒に耐えて数日過ごした女性と子どもの話を放送していました。被災者は想像を絶する過酷な状況に耐えているんだと自分を励ましました。
翌日3月18日はまず院内の中等症のトリアージにあたり,午後からは避難所の一つに向かい,食料や水の補給と往診を行いました。発生から1週間経過した状態では重症者は少なく,主に降圧薬などの定期薬を切らした患者さんに数日分の薬を渡すのが主な仕事でした。それでも患者さんは往診を喜んでいました。
翌日3月19日は災害対策本部の「ローラー作戦」に従い活動することになりました。石巻市内の多数の被災者が各地の避難所に避難していましたが,その当時,災害対策本部はそのすべてを把握していませんでした。そこで各救護班が各地の主な避難所の救護活動を繰り返し,また,それまで把握されていない避難所を新たに捜索し,すべての被災者を把握するという計画でした。このようなときに非常に役に立つのが保健師さんの情報であることをその時に知りました。市役所も災害対策本部にも全く情報がない中で,保健師さんは地域住民や避難所の情報をよく知っていました。我々の救護班にも保健師さんに同行してもらえることになり,最初に向かったのが渡波小学校でした。ここに1,000人以上の被災者が避難していました。校庭に多数の車やがれきが流されており,よく見ると校舎の壁に大人の肩ぐらいの高さにラインがついており,この高さまで津波が来たことがわかりました。1階部分の教室内部にも机や椅子は散乱し,がれきが侵入していました。赤や黒のランドセルがいくつも散乱したままになっていました。2階の教室にいたひげを伸ばしてぼろを着たおじさんが転がっているランドセルは流された子どもたちのものだと教えてくれました。後でこのおじさんが校長先生だと知りました。津波発生時からこの小学校に避難している3人の看護師さんと情報交換を行いました。2人は赤十字病院の看護師さんでそのうち1人は内科病棟の看護師長でリーダー役を務めており,もう1人は市立病院の看護師さんでした。3人とも休暇中に自宅で被災し小学校に避難し,それから1週間自分たちだけで被災者の看護を行っていたそうです。我々は本部からは医師会の救護班が入っているのでその傘下に入るようにと指示されていましたが,彼女たちの話では「医師会はすぐに帰ってしまって今朝やっと自衛隊の救護班が来てくれた」ということでした。1週間の患者の記録を1冊のノートにカルテ代わりにまとめてあり,赤十字病院に持って帰るよう託されました。被災当初問題になったのは透析患者さんのことで,自衛隊のヘリなどで搬送してもらったそうです。自衛隊の救護班が入ってくれたので我々はここでは数人のみ診察しました。教室で寝泊まりしていた高齢女性に脱水症のため点滴しました。認知症がひどく,夜間徘徊し奇声を上げるので周囲から憤慨され,24時間目が離せない状況とのことで付き添っていたお嫁さんも疲れ切っていました。お嫁さんの息子さんはこの小学校の生徒で,津波で流されて行方不明になっていましたが数日前に遺体が発見され警察から確認に来るよう連絡があったそうです。しかし,義母の介護から手が離せず,まだ会ってあげることもできないと涙を流していました。
この後,先ほどの看護師さんたちより,「この小学校の近辺に避難所に避難することもできず,自宅に残っている高齢者がいるようなので往診してほしい」という依頼がありました。救護班から私を含めた2人と市立病院の看護師さんとで別動隊をつくり往診することになりました。線路伝いに歩いていきましたが周辺の家屋は倒壊しており,線路の下も水たまりができて打ち上げられた魚が大量に残っていました。道すがら看護師さんから,「この周辺に自宅があったのだが津波が来て命からがら橋の上に逃げ出したのだが橋の中央にいた自分は助かったが,橋のたもとにいた人は流されてしまった。自宅もそっくり流されてしまった」と聞きました。看護師さんのご家族は無事だったのか気になりましたが,結局最後まで尋ねることはできませんでした。往診に向かった先の1件はすでに救急車で搬送されたとのことでしたので残る1件に向かいました。その家は津波で玄関や窓や壁も完全に破壊されており,1階部分は泥だらけで作業小屋にしか見えず,とても人が住めるような状態には見えませんでした。しかし,この家で老夫婦が1週間も過ごしていました。認知症の夫が津波のあと不眠,徘徊が悪化し妻が一晩中目を離すことができず,ほとんど睡眠がとれない状態で,とても避難所には行けないとのことでした。夫に睡眠薬を処方し,妻には介護も大事だが,自分の体を気遣わないと共倒れしてしまうので避難所に相談したほうが良いと説明しました。小学校に帰る途中,発見されたご遺体を警察が搬送する光景に遭遇しました。看護師さんが「この先が津波で家が全部流されて焼野原のようになってしまったところだよ。見たかったら行ってみたらいいよ。私は自宅があったところなので行きたくないから待っているから」と言われましたが,我々も見に行く気にはなれませんでした。
小学校へ帰ると今度は保健師さんが「どうも海沿いの地区でまだどこの救護班も把握していない避難所があるみたいなのでそこへ行けませんか」というので,全員でそちらへ向かうことになりました。保健師さんが道すがら地域の人の情報を集めながら捜してみると実際にまだ一度も救護班が来ていない避難所を見つけました。地域の住民が公民館に避難していましたが食料は十分にたくわえがあったようで落ち着いていました。しかし,高齢者は定期薬を切らしており,問診や診察や類似薬を処方するくらいしかできませんでしたが,それでも喜んでいました。救護活動を終えて病院へ帰ろうとしましたが,海辺の地域は全体的に地盤沈下しているため満潮になると海水が道路まで浸水してきており,帰れなくなるのではないかとひやひやしながら海水の中を走っていきました。帰路ではいろいろな悲惨な光景を目の当たりにしました。川沿いの家屋が破壊されていたり,水田があった平野は湖のようになっており,車が大量に押し流されていました。道端にはいまだにシートをかけられたご遺体が放置されたままになっていました。石巻市で津波に流された家屋の中から9日ぶりに80歳の祖母と孫が奇跡的に救助されたのはその頃だったと思います。
実質4日間の救護活動を終えて帰路につきましたが,ちょうどそのとき近くのスーパーがやっと開店するところで,周囲の大きな区画をぐるっと1周取り巻くように整然と列をつくって人々が待っていました。東北の人々は我慢強く,冷静で,思いやりにあふれていると思い非常に感銘を受けました。
こうして5年前の救護活動を振り返ってみると我々は被災者に対してほとんど何もしてあげられなかったと思います。しかし,検査もできない,薬もない状態であっても話を聞いたり,診察をしたりして少しでも被災者の落ち込んだ気持ちを和らげることができたのなら幸いです。またこれが医療の原点なのだろうと感じました。その後私は日本DMAT隊員に認定され,現在は鹿児島大学病院DMATに所属しています。そもそも私の専門はリウマチ・膠原病で,救急医療が得意なわけではありません。しかし,5年前の経験から,被災地に行きさえすれば必ず何かしら被災者の役に立つことはできるはずと信じています。そのためには医療関係者や医療機関は災害医療に十分な準備をしておく必要があると考えています。
| 次号は,鹿児島大学医学部・歯学部附属病院 血液・膠原病内科の吉満 誠先生のご執筆です。(編集委員会) |

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