随筆・その他
「 随 筆 回 走 」
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鹿児島大学医学部・歯学部附属病院 血液・膠原病内科 井上 大栄
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最近,と言っても間もなく2年になりますが,基本的に週1回ジョギングしています。雨の日は休みます。飲みすぎた次の日も休みます。なるべく毎週走るようにはしています。距離は4kmぐらい近所をぐるっと回ります。早歩きよりちょっと早いか,同じぐらいのスピードです。一応,坂道の上り下りの行程も含まれます。途中の公園でストレッチと称して休憩もします。僕は,ただ走るだけというのがもともと好きではありません。しんどいし,何を考えながら走ればいいのかも分かりません。ですから,2年も続いているのが驚きです。
幼少期・学童期に運動不足だった僕は,いわゆる中肉中背(正直には,やや肥満児)でした。小学校の校則は,丸坊主で半ズボンの制服でした。僕は,冬に半ズボンの下に白タイツを穿かされていました(苦笑)。両親は,僕に運動をしろと言ったことはない気がします。勉強しろとは言っていました。低学年のころから近所の塾や英語教室に行っていました。学習塾というのが流行り始めた時代でした。小学校5年生から,わざわざ片道50kmほどの距離を自動車で週2回ほど通っていました。日曜日も通っていました。大変でしたが,親も大変でしたでしょう。でも,自分で行きたいとは一言も発してないはずなのに,後々には「お前が望んでいたから」と言われました。そんなはずないのに! 塾通いの僕は,当時テレビで人気だった「機動戦士ガンダム」や「キン肉マン」を見ることができなかったのですよ。我ながらかわいそうだったなぁ(だから塾は嫌いです。僕の子ども達が塾に行きたがる気持ちが理解できません)。でも,「8時だョ!全員集合」は見ていました。「オレたちひょうきん族」も好きでした。お茶の間で,馬鹿みたいに笑い転げていました。
中学を卒業するまで部活に入ることもなくブクブクと過ごしていました。小学生の時,1年間ぐらいテニスクラブには入ったけど,塾が忙しくなってやめました。これも自分が望んだことになってしまっていたけど・・。そういえば,エレクトーン教室に通ったこともありました。これは本当に興味がなくて,練習しなくてやめました(先生に愛想を尽かされたのかも?)。運動は嫌いではありませんでした。いや,好きなスポーツもあったと言った方がいいか。体育の授業も基本的に好きでした。でも,絶対嫌いなのが陸上,特に持久走。どの小中学校でもあったでしょう。嫌,でしたね。言い訳をすると喘息もあったのだけど,息苦しくなって,足が重くなって,右季肋部がキリキリ痛くなって,ゴールが遠くて,当然走るのが遅いからビリっ尻で,嫌でした。多分,5km前後の距離でしたけど,地獄でした。皆さん,分かっていただけますか。
話は変わりますが,この頃は叔父さんによく釣りに連れて行ってもらいました。堤防釣りに行ったけど,好きだったのは磯釣りでした。渡し船は使いません。山道を登って崖を降りて,30分程汗だくになって釣り場まで歩いて行くのですが,そんな時はへっちゃらなんですよね。もちろん帰りも。焼酎を飲むと山芋を掘っちゃう叔父さんでしたが,大好きでした(今もお元気です)。最近,忙しくて釣りにはあまり行けていないけど,医者になっても時間があれば夜も明けないうちに早起きして行きます。でも,極めることができない(根気がないのか?)僕は,いつまで経っても適当な仕掛けで釣ります。「クロ」は水中ウキを使って,潮の流れを読んで,ハリスは何号にして,深さは,ってことはできません。エサも適当に選びます。釣れない時は,自然を味わえばいいか,って思っちゃうんですね。
ヒネくれていた中学時代,悪友達と小さな反抗的行為をして過ごしたものでした。ビー・バップ・ハイスクール,ヤンキーの隆盛期で,長ランとかボンタンとかを着ていた時代です。僕はカッコつけだけど小心者でしたので,ちょっと大きめとかちょっと短めとかを着ていました。それでも,先輩に小突かれたり,天文館でカツ上げされたりで,何ともほろ苦い中学時代でした。
ヒネくれながら塾通いをしていた僕が,高校に合格した時どれだけ解放感を味わったことか。これで塾ともおさらばだ! 天に昇る感じですよね。ただ走るだけは嫌いだけどボールを蹴って走るのは好きな僕は,すぐにサッカー部に入部しました。ちなみに,僕が卒業した中学のサッカー部は強かったのですが,当然僕には何の関係もありません。入部した時にその中学校卒って言ったら,一瞬周りがざわついてしまいました。先輩は,ヨッシャって感じでした。でも,「帰宅部でした」と言うと失笑されました。
でも,高校に入ると新たに楽しい日々を過ごしていました。サッカー部は,本当に粋なカッコいい仲間が揃っていて居心地が良かったのでした。(基礎がないし)上手くはならないけど,サッカーばかりしていました。でも走り込みの練習はダメでしたね。サッカー部なのに持久走はビリっ尻(泣)。それでも,活き活きしていました。そう,成績が奈落の底に落ちるまでは・・。勉強しなかったから当然ですよね。おかげ様で,2年生になったら部活をやめることになったのです。悔しくて勉強スイッチが入ったので何とか成績は上がってきました。YDK(やれば,できる子)です。だったら初めからやれよってなるけど,そこが僕らしい。そんな僕がとった行動は,何と3年生になってまたサッカー部に入ったのです。今は,よくそんな恥ずかしいことできたなぁって思います。でも,「また戻ってこいよ」って,みんなが言ってくれるのだもの。で,本当に戻ったら,「え,本当に戻ってきたの(驚)」ってさ。自業自得だけど,何でしょうねこの中途半端な人生。でも楽しかったです。もちろん,運動不足で,ますます恥ずかしい姿を曝け出していましたけど。
高校を卒業して,1年浪人して医学部に入学しました。両親は喜んでくれました。でも,祖母は「そんな大変な仕事を選ばなくても・・」って気遣ってくれていました。優しいお婆ちゃんでしたから。入学してもちろんサッカー部に入りましたが,レギュラーにはなれるはずもありません。だって下手だもの。でも,大学の仲間もいい奴等で恵まれていました。だから,またも勉強そっちのけになってサッカーしてました。この時はかなり走り込み,体もスリムになりました(本当です)。後輩から,「いのさんは,走るのが得意でいいですね」って言われたときは,隠れてガッツポーズです。人生最高の褒め言葉でした(サッカーは褒められないけど・・)。そんな楽しい6年間でした。
話が飛びますが,中学の頃はバンドブームでした。もれなく僕もギターを手にして,悪友達と練習をしていました。でも,極めることができない僕は,練習は一応するのですが,いっこうに上達しません。才能がなかったのもあります。大学時代までは練習していましたが,ついに練習で終わりました。今,錆びたギターが部屋にひっそりと佇んでいます。
医師になって,しばらくはサッカーどころではありませんでした(亡くなった祖母の言葉が身に染みることにもなりました)。そして見事に,小太りに逆戻り。でも下手の横好きです。鹿児島大学のドクターズに参加させてもらいました。40歳ぐらいまでは,何も準備しないで何とか試合でもギリギリ走れていました。でも,2年前の初戦で,全力で走ってすぐにターンしないといけない時に,ターンするどころか,足を止めることすらできなかったのです。よろよろ前に進んで転んじゃいました。踏ん張る筋力が全くなかったのです。皆さんもそんな出来事がありませんか。何ということでしょう,体の衰えを,老いをまざまざと実感したのです。ショックでした。下手くそな上に,まともに走れないなんて・・。飛べない豚は,ただの豚だ・・(「紅の豚」より)。
ということで,走り始めることになります。初めのころは,100mぐらいでゼーゼー呼吸困難。今はもうちょっと鍛えられています。サッカーの試合でも,少し走れるようになりました。でも最近は,痩せてきた体と健康を維持するために走る意味もあります。いつの間にか,妻子持ちの痛風・高血圧持ちの壮年になってしまい,健康を維持するのも努力と薬物療法が必要になってしまいました。そうなると,走るのは好きじゃないけど,走らなくなるのも怖くなってくるのです。強迫観念です。でも,体を動かしていると,食事も美味しいし,気持ちも穏やかになる気がします。
走っている時は,色々と考えています。今はもちろん,このリレー随筆に何書こう。考えているときにはそれなりに面白いのが書けそうな気がしましたが,いざ書いてみるとがっかりです。自分なりに何かをしてきた人生と思っていたけど,振り返ると何も無い。家庭ができたぐらい。中途半端に過ごしてきたからなぁ,って感じています。
最近思うこと。IS(イスラム国)やら,テロやら,何故罪のない無関係な人々を殺戮してしまうのでしょう。宗教のため? 個人の利益のため? 僕は小さいころは,アメリカやヨーロッパで生まれたかったなぁ,と何の根拠もなく思っていました。でも今は違います。日本でよかった。仏教や禅宗では,無意味に人様に迷惑をかけてはいけないはずです。南無阿弥陀仏や喝の世界では,無心,無我そして自然法爾の境地では,他人をどうこうしようなどと考えすらもたないはず(他の宗教がどうとかではありません。僕は宗教家でもありません)。ただ世界の平和を願います。
最近思うこと。今,血液・膠原病内科の医局長をしています。治療のこと,新入局員の勧誘や人事異動なども悩みます。そして,鹿児島の血液内科,膠原病内科を維持・繁栄させていくことを目的とした,The Organization of Hematologists and Rheumatologists in Kagoshima ; OHRKA(オルカ)という会が創立されました。オルカが発展していくことを願います。ご興味のある方はご連絡ください。宣伝です。
色々と,思い巡らしながら走っています。そして,いつまで走れるのだろうとも・・。
| 次号は,鹿児島大学医学部・歯学部附属病院 血液・膠原病内科の秋元正樹先生のご執筆です。(編集委員会) |

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