2つの「運命的な」出会い
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写真 1 Zurich大学病院皮膚科の正面玄関
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2014年7月,私はスイス・Zurich大学皮膚科の門戸を叩きました(写真1)。きっかけは2013年真夏の「運命的な」出会いに遡ります。講演のために甲府を訪れていたZurich大学皮膚科Reinhard
Dummer教授は世界的に著名なメラノーマ研究者であり,彼の革新的な講演の後には日本皮膚科学会の重鎮たちが群がり,まさに雲の上の存在でした。学会の帰路,その日の甲府の気温は過去最高41度を記録する猛暑,路線のトラブルで電車が軒並み遅延しているなか,蒸し風呂のような熱気のプラットホームで電車を待つ長い列の中にサングラス姿のひときわ目立つ外国人-Reinhard(敬意と親しみを込めて,あえて名前表記をします)。すぐさま挨拶に行き,私自身の専門を説明するとともにReinhardのもとで短期間でも学ぶことが可能かどうかの打診をしたところ「もちろん!宿舎も準備するよ」と予想外の返事が返ってきたわけです。
鹿児島大学皮膚科に入局すると,ほとんどが10年ほどの勤続を経てから退局して開業医や勤務医として次のステージに活躍の場を移します。当時の私は,教授に就任した先生方を除くと最長の医局勤続20年以上を重ねていました。臨床をはじめ医学生教育,大学院生の指導の他,皮膚がんの多施設共同臨床研究に携わっていたものの,皮膚科の臨床・教育・研究がアンバランスな環境で仕事をしている虚しさを感じていました。そんな折に,鹿児島県臨床研修医合同研修会で講演する機会をいただき,その取り纏め役をされている鹿児島医療センター名誉院長の中村一彦先生と,「運命的な」出会いを果たしました。中村先生の県全体の医療への俯瞰的な見方と考えに刺激され,そのお言葉に強く心動かされました。上司だった皮膚科教授に中村先生とのこれまでの関わりを説明,医療センターへの就職活動を進めてよいか確認し,退局も含めて了承を得たうえで,鹿児島医療センターとの交渉を行うことになったわけです。そして中村先生と花田修一院長から勧誘をいただき鹿児島医療センターへ就職することになりました。大学を退職してから再就職までに少しだけ時間をいただき,以前からの想い-海外留学をしたい旨-を花田院長に相談したところ,医療センター籍で留学を,との寛大なご指示をいただきました。2つの「運命的な」出会いが見事に融合し,大学退局後の2014年7月から9月までの3カ月間,Zurich大学皮膚科に留学するに至ったわけです。
University Hospital Zurichへ
欧米には日本をはるかに上回る数の皮膚がん患者が存在しています。Zurich大学はスイス国内をはじめ近隣諸国からメラノーマをはじめとした多くの皮膚がん患者が受診する,ヨーロッパの皮膚がん治療・研究の中心的役割を担っています。
Zurich大学への留学の大きな目的は3つありました。一つは昨年から本格的に本邦でも行われるようになったメラノーマ治療(がん免疫療法と分子標的療法)の臨床現場の最先端で学ぶこと,ヨーロッパでのメラノーマの臨床研究を経験すること,異文化に触れ多くの友人を増やす,ということでした。医療センター籍での留学であり,成果を挙げて帰国しようという覚悟をもってZurich大学皮膚科に飛び込みました。赴任初日,早速Reinhardから研究プロジェクトの一つ(がんの微小環境,M1, 2マクロファージと予後の関連)を言い渡され週1回のリサーチカンファでその進捗を報告するように指示されました。また病棟回診の折に触れた症例(メラノーマ患者に対するがん免疫療法での長期生存とその病理組織学的観察)の論文作成を命ぜられ,スイス人医師に手伝ってもらいながらドイツ語のカルテと顕微鏡の前で多忙な毎日を過ごしました。臨床では,15~20例ほどのメラノーマをはじめとした皮膚がん進行例の治療方針を検討する臨床カンファレンスは非常にエキサイティングで,日本では経験できない手術(Mohs Micrographic Surgery: 術中凍結標本を用いて切除断端を確認しながら行う外科的切除)にも数多く参加できました。スイス人医師のみならず日本人留学生ともかけがえのない親交を深めることもできました。さらにReinhardの生き方-確固たる統率力をもって組織をまとめ,膨大な研究データを次々と出してビッグジャーナルに多くの論文を載せて世界を席巻しつつ,昼休みにはテニスを楽しみ休日は家族の時間を大切にする,on-offスイッチをしっかり保つ彼の姿勢-に多くの感銘を受けました。
この留学で多くを経験できたことは,今の仕事-皮膚がんの新規治療や臨床研究-での大きな糧となりました。また筆頭著者として症例論文1報,共著で原著論文1報を形の残る成果として上げる事ができましたし,自身の研究プロジェクトはその後に赴任したドクターへ引き継がれて現在進行中です。わずか3カ月でしたが濃い中身で想定以上の成果が挙げられたのではないか,と感じています。
スイスの青い空
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写真 2 モンテ・ローザとゴルナー氷河
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写真 3 マッターホルンとリッフェリゼーに
浮かぶ逆さマッターホルン
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写真 4 アプト式登山鉄道のユングフラウ鉄道
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写真 5 スフィンクス展望台から眺める
ユングフラウ頂上
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日々の仕事はまさしく分刻みでとてものんびりする暇はなかったのですが,週末は比較的余裕があったためスイス国内を観光する機会に恵まれました。元来,自然に触れることや一眼レフを片手に旅行をすることが大好きで,また幼いころは鉄道の時刻表を袂に置き鉄道旅行を妄想する「鉄道ヲタ」だった私にとって,スイスでの週末は日々の多忙を癒すものとなりました。そんな週末の観光のなかで思い出深い土地が2カ所あります。1つ目は世界の名山マッターホルンを望むツェルマット・ゴルナーグラードへの旅(写真2,3)であり,そして2つ目は,年老いた両親が私を訪ねてきたときに共に旅したユングフラウヨッホ(写真4,5)です。
マッターホルンはヨーロッパアルプスの数多くの名峰の中で最も人気のある山で,多くのツーリストが訪れるスイスでも一番人気の観光名所です。標高4,478mのマッターホルンへの初登頂が成されたのは1865年,その際にザイルトラブルによる犠牲者が出たことは有名な逸話であり,聖なる孤高の峰として君臨しています。このアルペンリゾートの基点となる村が標高1,620mに位置するツェルマットであり,そこから1898年に開通したゴルナーグラード鉄道(歯車が用いられたアプト式登山鉄道)に乗り,ゴルナーグラード山頂近く(3,089m)まで一気に駆け上がります。展望台から眺めるヨーロッパ・アルプス第2の高峰モンテ・ローザやそこから押し出されるゴルナー氷河の姿は,圧巻という言葉しか当てはまりません(写真2)。少し山を下りリッフェリゼー湖まで行くとそこには,湖面に浮かぶ逆さマッターホルンが悠然と姿を現します(写真3)。この日は,地元のスイス人ですら経験することが少ない,透き通るような青い空であり,異次元の美しさが暫し時を忘れさせてくれました。
標高3,454mのユングフラウヨッホへは,多くのアルピニストが命を落としたアイガー北壁などのアルプスの岩壁を突き破って進む山岳鉄道-ユングフラウ鉄道-で到達することができます(写真4)。ユングフラウ鉄道は,1912年(日本では明治から大正になる時代)に開通した,ヨーロッパで最も標高の高い鉄道駅であるユングフラウヨッホ駅を終点とした登山鉄道です。その全長はわずか9.3kmですが,急勾配のトンネルの中を50分ほどの時間をかけて進みます。トンネル内には二つの駅があり,そこで乗客は下車して駅舎の窓から周辺の山々を眺望できます。その日のユングフラウは生憎の曇り空で,駅舎の窓から望む氷河は厚い雲に覆われて視界はほぼゼロの状態でした。半ば諦め気分で展望台に立つと…まさかの青い空(写真5)!信州の片田舎で育ち山登りが趣味,クールで真面目一筋,自分のことより他人の幸せを心から望む父親。3人の子どもを育てながら父親を支え続けた母親。この2人が,これまでに見せたことも無い,子どものように無邪気に興奮する姿,家族にとってもこの留学はいい経験だった,と心から感じた瞬間でした。
スイスから鹿児島へ
世界を牽引するReinhardグループと共にし,スイスアルプスの山々に包まれていた3カ月間。自身の些々と世界の広大さをあの時ほど実感したことはありません。そんなスイスから鹿児島に戻った私は,鹿児島医療センターで皮膚腫瘍を主に診療する「皮膚腫瘍科・皮膚科」での任務を命ぜられました。次世代への教育と継承への想いは医局員時代と変わらず,鹿児島医療センターと鹿児島大学間の連携をお願いしたものの片想いに終わってしまい,その後オファーをいただいた京都大学からの専修医を招き入れ,臨床教育にも注力する構えです。
まだ産声をあげて間もない当科ではありますが,鹿児島医療センターのスタッフの皆さんに支えられながら,地域医療に貢献できる環境が着実に整備しつつあると考えています。これらはスイスでの数々の経験がその原動力となったことも言うまでもありません。スイスで感じたことの一端を松岡修造風で言えば,「ちっちゃく生きるな!でっかく生きろ!」。
多くの方々とのかけがえのない触れ合いで得たもの,スイスの青い空のもとでの熱い想いを胸に,揺るぎない発展を誓う今日この頃です。今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。
| 次号は,鹿児島医療センターの魚住公治先生のご執筆です。(編集委員会) |

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