=== 新春随筆 ===

     球 面 の か ら く り




 南区・谷山支部
  水枝谷 渉

 スペインの帆船“エルカーノ号”を旗艦とする3隻の艦隊が鹿児島に寄港したのは,たしか平成15年(2003)2月下旬だったと思う。外観は4本マストの優雅な帆船だが,両舷にはそれぞれ8門の大砲を装備したれっきとした軍艦,海軍士官候補生たちの訓練の一環として世界一周の途上当地を訪れたもので,艦内は一般公開された。旗艦“エルカーノ”の名は,かつてマジェラン(Ferdinand Magellan)が,東洋への近道と,その根拠とされている地球が丸いという仮説を立証しようと5艘の帆船と280名の隊員を率い,1519年8月10日スペインのセヴィリアを出港,西回りの航路をとったときの副官 ファン セバスチアン エルカーノ(Juan Sebastian Elcano)の名を採ったものであり,スペイン海軍が,敢えて旧式装備の帆船で世界一周を試行する所以は,エルカーノとその部下たちが耐え抜いた苦難の中に,海軍魂の何であるかを見出させようとしている意図がうかがわれた。当初のリーダー,マジェランはフィリピンのセブ島での布教中,近くの島の住民との小競り合いで戦死するが,エルカーノはその後の総指揮を執って1522年3月18日,出港以来2年7ヶ月と10日ぶりにスペインのサン・ルカール・パラメーダ港に帰港する。マジェランは最後まで行動を共にはできなかったものの,今回の航海以前,ポルトガルのインド総督のもとでマラッカ海峡をさらに東へ越えたモルッカ諸島の香辛料貿易に数年間携わっていた。その頃,コロンブスが発見(1492)した西インド諸島のサン・サルヴァドール島からインドまでは,わずか数日の距離と想像されていたため,未知の海域を甘くみたうえ,南北に立ちはだかる新大陸の端に到達できず,最大の難所だったマジェラン海峡(彼の命名)を越えて太平洋に入ったものの,予想はさらに大きく外れて99日間もの航海の果て,ようやくグアム島にたどり着く。その数日後,赤道へ向かって南下中,かつての貿易時代の記憶,モルッカ諸島の島影を確認する。この時点でマジェランは事実上世界一周を成し遂げたという見方もあるが,単独の航海としての世界一周つまり世界周航を成し遂げたのはマジェラン艦隊の生き残りであるエルカーノおよび同航者18名が最初であり,マジェランは地球が丸いという事実を立証したまでで,本来の世界一周達成者ではない。これらのことはしばしば混同されがちであり,スペイン海軍が世界一周の旗艦を“エルカーノ号”とする所以もこの点にある。余談だがコロンブスは,サン・サルヴァドール島付近が新大陸近海のバハマ諸島だとは知らずに,あくまでインド付近の島に辿り着いたと信じ込んだまま死んだ。この一帯が西インド諸島と呼ばれているのは,発見当時の名がそのまま残されているまでのことである。
 さて,エルカーノは残る一艘の船と部下を率い,出港以来の記録をイタリア人の書記ピガフェッタ(Antonio Pigafette)とともに詳細に書き残しながら遂に喜望峰を越え,世界一周達成を目前にしてアフリカ西部のヴェルデ岬諸島に立ち寄った,その時,不可解な現実に直面する。それは航海日誌上,水曜日である筈の日付が,寄港地では木曜日になっていることであった。何処かで日時か曜日の算定を間違えたか幾度もチェックしたが,計算のミスもなければ記載の誤りもない。またエルカーノは当時としてはかなり精巧な時計を携行していたので,この1日の喪失を大いに驚き解釈に苦しんだ。そして最後に「西へ航海することによって1日を失うことを知る」とだけ書き残している。つまりそれを体験した最初の人物・・ということであり,地球が丸いということがまだ曖昧で,日付変更線などその概念すら無かった頃のことであるから理論的な説明が出来ず,1日遅れという現実に従わざるを得なかった。現在,ハワイから日本へ向かう機内で日付が変わることなど常識となっているが,彼らが西回りでなぜ1日を失ったかを考えてみた。
 まず,北極を上に,南極を下にした地球儀の赤道を真横(黄道上)から眺める。赤道上に1地点Pをとり,ここを出発地(港)とし,エルカーノらをQとしてPからスタートするとする。西へ航行して行くQは地球儀上では左回りとなり,出発地Pは地球の自転と共に右回りを続ける。つまり定点Pは右へ,動点Qは左へ移動を始める。太陽は南北を結ぶ経線上の定点にあるとして,今,P地点が南中(太陽が真南に来ること=am12:00=正午)に達し,時計の針を12:00時に合わせ,西へ向かってQが出航したとする。一夜明けて四方何も見えない大海原に出た,勿論,地球は1回自転している。さて,ここで日付と時刻をどう判断したであろうか。彼ら帆船の速度を仮に5ノット/時として,出航後24時間の位置を計算すると,5×24=120浬(=222km)西に来ていることになり,緯度にして120秒=2°西だから,南中の時刻は前日よりも24時間×2/360=8分遅れることになる。エルカーノの時計はpm12:08を指していた筈であるが,これを12:00に修正,針を8分戻した。これが1日遅れの要因になるか・・である。
 古今東西,日の出から翌日の日の出(あるいは日没から翌日の日没)までを1日とし,南中を1日の真ん中とする起算法は,昔も今と変わらないし,また西(あるいは東)へ移動しても1日の真ん中はその位置での南中だということも同じく変わらない。したがって出航した翌日,エルカーノらは大海原で南中を待って時刻を修正した。これは決して誤ったやり方だったとは云いきれない。当時の宇宙・天文学の概念はまだ天動説で,太陽の動きで1日が明け暮れると考えられていたし,世界地図は平面的な描写,昼の裏側が夜などという地球の考え方など全くなかったし,オテントサマは平等に照らし,朝,昼,晩は何処も同じという固定観念だったからで,目標のない大海原とか砂漠での位置と時刻は太陽に頼るしかなかった。したがって,西(あるいは東)へ移動すると,その距離分だけ南中時刻がずれるという考え方など毛頭なかったと思われる。この頃しかし,地動説が台頭しつつあったが,教会はこれに否定的で強烈な弾圧を加えていた。コペルニクスもそれを畏れて著書の出版を自分の死後にするように依頼して没(1543)している。
 さて,先ほどのpm12:08という時刻を地球が自転しているという現代の天文地理学で考えてみると,出港地Pの現在の時刻に間違いはない,と同時にQの南中の時刻であり,これを8分遅らせてam12:00に修正すれば,彼らは南中時刻だけを遅らせただけでなく,翌日の夜明けもPより8分遅らすことになる,つまり出発(港)の日時から遠ざかって行きつつある。が,しかし毎日南中に時計を修正した回数は,航海日数と一致したことだけは間違いなく,1日のズレの根拠となった。ここで改めて1日のズレの原因を考え直して見よう。赤道上の2点,PとQを同一円周上に合成してみた。まず出発時点ではPとQは円周上の同一地点にあるが,地球が一周して1日経った時点ではPは1回転して元の位置にある。が,Qは西へ時速5ノットで移動しているからPより少し左の位置,距離にすれば120浬左方,緯度では2°西に在る。これはP地点から見れば8分前に通過した位置であり,Qから見ればPに8分の距離だけ追い越されている状態である。Qが西へ行けば行くほどこの間隔は距離的にも時間的にも日数と共に拡がり,半周追い越された位置では半日(Pの一周は1日だから),一周目に丁度1日遅れることになる。これがエルカーノとピガフェッタが突き付けられた「西へ航行することによって1日を失った」現実であった。彼らにとっての謎は,昼夜の構成が地球の自転によっておきる周期的球面現象という天文学的知識であったことは間違いない。しかしそれを解く鍵の一つ,地球が丸かった事実を証明した功績は大きいというべきである。しかもこの1日を失う現象は連続して地球を2周すれば勿論2日を失い,3周すると3日を失う。後世,コペルニクスの地動説が普遍的な支持を得ると,世間の考え方として,では東回りではどうなるのか,と考えるのが当然,1872年,フランスの作家ジュール・ヴェルヌは「八十日間世界一周」というテーマで,地球のからくりを題材にした小説を出版しセンセーションを巻き起こした。舞台はロンドンの或るクラブ,あらすじは八十日間で世界一周ができるか,という賭けに全財産を投じたとある富豪が,東回りの航路で世界一周の壮挙に挑んだ。途中,夫の葬儀で生け贄にされる寸前の若い妻を,人道的に不道理だと救い出したものの,思わぬ手違いから同行する羽目に陥る。この辺から日程が狂い始め,たった1日遅れで賭けに負けて全財産を失うことになった。同行した女性を養うことも不可能になり,わけを話して詫びると,女性は「二人で協力すればどんな困難でも乗り切れる」と,逆に励まされる。その心情に心を打たれて結婚を決意,教会へ挙式の申し込みをするが,明日は日曜日で結婚式はできないと断られたことに驚嘆する。賭けの期限が土曜日pm8:45だったが,1日遅れたつもりの計算が東回りで日付を稼ぎ,はからずも賭けに勝っていた・・というトリック物語である。この小説は事実上エルカーノらと反対方向の東回りでは,1日の得をする事実を採り上げた作品であり,単純に読むと,東回りで日付変更線を2回〜3回と越え続ければ2日,3日・・と得をすることが可能になりそうな印象を与える,が,実は不可能である。何故か?それは,地球上には1日分のプログラムしか組めないことになっているからである。つまり太陽が照らす地球面には表半分の昼と,裏半分が夜,しか組めない・・という至極当たり前のこと,東へ行ったからとて,前日の残りに少々在りつけるぐらいのもので,この方法で日を稼ぎ,生存日数を伸ばして長生きをしようなどと思い巡らしても,せいぜい半日が精一杯というところであろうか。
 「門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」泰然と世を生き抜いた“一茶”,焦っても人生とはそんなものじゃ,一里塚をゆっくりと歩く方が得策・・と詠んだものか。
 さて,話は戻って,第1埠頭に繋留中,エルカーノ号の艦内でひときわ目を引いたのは,アメリカ合衆国アナポリス海軍兵学校から贈られた“楯”であった。一目して判ったことは鹿児島に寄港した目的が,東郷平八郎生誕の地を訪れたということであった。嘗て1970年ごろ,メリーランド州ワシントン郊外のアナポリスNaval academy(海軍兵学校の正式名称)を訪れたとき,世界の3大提督の一人と云われた東郷平八郎提督の等身大の肖像画が,英国のネルソン提督の肖像画と並んで飾られていたことを想いだし,士官候補生の教育理念に,洋の東西を問わない先人たちへの尊敬の念と憧憬が込められていることを感じた。数日後,華やかな軍楽隊の送礼と答礼の中,早春の陽光と順風を満帆に受け,3隻の艦隊は次の航海へ粛然と去って行った。




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