=== 新春随筆 ===
戦後70年を振り返って
NEXT WORLDに夢託す
|
|
社会医療法人緑泉会 会長
(中央区・中洲支部 整形外科米盛中央駅クリニック) 米盛 學
|
|
2016年,平成28年がスタートした。
昨年は戦後70年目の節目だったことから,テレビや新聞・雑誌がこぞって特集を組み,さながら戦後史総覧の様相を呈した。歴史の歯車は休むことなく時を刻み,我々はどこへ向かおうとしているのか?戦後80年はどんな顔をしてやってくるか?過ぎし70年の明暗をたどりつつ,来し方をおさらいしながらNEXT WORLD私たちの未来を考える一助にしたい。
●国破れてマッカーサー
戦後生まれが国民の8割を超え,終戦前後の日常生活を覚えている世代が少数派になった。「戦後というがいつの戦争のこと?」などと質問する若者がいる。彼ら彼女らにとって先の大戦も日露戦争もベトナム戦争も,ただ歴史年表の一項目にすぎないのだろう。生活感を伴っていないから当然かもしれない。敗戦の年の昭和20年生まれが文字通り70歳,古希である。ちなみにこの年,小生は国民小学校6年生だった。敗戦の年の出生率は「産めよふやせよ」の戦時中と,昭和22〜24年のベビーブーム(いわゆる団塊世代)との谷間にあって極端に低い。歴史的,社会的制約の反映なのだろう。
戦後日本の支配者として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーは以来7年間君臨した。焼け跡の学童達は黒塗り教科書を使い,シラミ退治に臭い殺虫剤のDDTを振りかけられ,回虫駆除と称して海藻を煎じたマクリ(別名・海人草)を飲まされた。
焼け跡闇市の国民生活はきわめて不自由だったが,戦後初の国産映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」がはやり,昭和21年には新聞の連載漫画「サザエさん」(長谷川町子),同27年には「鉄腕アトム」(手塚治虫)が少年雑誌に登場するなど,文化・文芸や娯楽に飢えた人心に一服の清涼剤となって全国津々浦々に広がっていく。
経済復興を急スピードで促進したのは昭和25年から3年間続いた朝鮮戦争である。国連軍主力のアメリカ軍は,軍事物資を日本依頼。金属,繊維の金ヘン,糸ヘン景気をはじめ,セメント,肥料,紙パルプなど日本中の業界が好況に沸いた。なにしろ米軍爆弾使用量は太平洋戦争の量を4倍近くも上回り,日本の軍事基地と補給基地の役割も大きくふくれ上がったのである。
さながら漁夫の利のように降って湧いた景気は「特需」という流行語を生み,個人消費も高まり,昭和26年の国民総生産(GNP)は戦前をはるか超えるほど上昇した。
●もはや戦後ではない
昭和31年にはすでに医学部専門2年生。その年の経済白書いわく「もはや戦後ではない」と。後々まで残る名文句となった。その3年後には,現平成天皇ご夫妻のご成婚だった。
テレビ放映で4頭の馬にひかれた皇室馬車に乗ったご夫妻の颯爽としたお姿に感激したものだ。これを機に白黒テレビが爆発的に普及したと同時に,洗濯機,冷蔵庫を加えた,いわゆる「三種の神器」が家庭に普及していった。政府も所得倍増計画をぶち上げる。その間,神武景気,いざなぎ景気,岩戸景気などの経済右肩上がりが続いた。高度成長の幕開けは世の中全体が躍動感あふれる時代だったといえよう。
しかし,負の側面も思い出される。環境汚染公害の水俣病,オイルショックの衝撃は全国各地のスーパーでトイレットペーパー狂騒を引き起こすなどライフラインにも不安をもたらした。また,世界革命を目指した日本連合赤軍の様々な事件,それに昭和52年のダッカ事件では人質解放に向けて,投獄されていた日本赤軍6人を「超法規的措置」として釈放,600万ドル(当時の為替レート(1USドル≒約266円)約16億円)もの大金を身代金として出した。「一人の命は地球より重い」(福田赳夫首相)の名言が耳に残っている。これらは東京オリンピック(同39年),大阪万博(同45年)などの華やかな表の光と対極をなす裏の影である。
平成になり7年の阪神・淡路大震災や,平成23年の東日本大震災と東京電力の福島第一原発事故は国を揺るがす天変地異となって国民を恐怖のどん底に突き落とした。原発事故は営々と築いた安全・安心神話を根底から覆したのである。失われたものは取り返しがつかないほど大事なこととして忘れてはならない。
●国民の健康を守って
医療界の戦後史も政治・経済・社会の変遷とともに大きく揺れ動いてきた。高度経済成長をバックに昭和48年には老人医療費無料化が制度化され,田中角栄内閣はこの年を「福祉元年」としたが,わずか10年間で国の財政支援が危なくなった経緯はご承知のとおりである。
昭和58年には厚生省の吉村 仁氏が「このまま医療費の増大が続けば国を滅ぼす」とショッキングな論文を出した。いわゆる「医療費亡国論」を時の厚生省・保険局長が社会保険旬報に掲載したのだ。そのタイミングは13選の長期にわたって日本医師会に君臨した武見太郎が引退した翌年のことだ。
吉村論文はわが国の医療行政の大きな波紋を巻き起こした。日本医師会はそれまで「保険医総辞退」などの抗議で一斉休診のストライキを実施するなど,診療報酬をめぐり政府と攻防を展開していた。
武見氏なきあと日本医師会のスタンスに変化がみられたことを契機に,厚生省はベッド数削減や医療費削減を目論む「医療法改正」を段階的に執拗に進めてきた。医療の質の向上,地域医療の充実化をうたい文句に平成16年度から臨床研修医制度を実施した。医学部卒業生が研修する医療機関を自由に選べるようになったことから人材の都会への集中化現象が起こった。地域医療を守ろうと鹿児島県や自治体は地域枠制度を設定し研修期間中の奨学金を提供したり,県医師会も寄付金を募って研修生に援助するなど官民一体となって人材確保体制を構築した。それでも離島へき地の多い自治体など医師不足の懸念は現在でも解消しないのが実情のようである。
●社会的共通資本の支援
戦後70年の間に,日本人の寿命はずっと伸び続け,いまや世界一となった。しかし,高齢化と医療技術の高度化は必然的にコストを跳ね上げるもの。現在65歳の高齢化率は26.7%(総務省調べ)だが,2040年には36%を超える勢いだという。医療費も増えて平成13年度集計では初の40兆円台を記録した。もちろんこれには国民の高齢化と医療技術の進歩,高度化によるもので当然の帰結である。とはいえ医療・介護を中心とする社会保障の膨張への対応策が急務になっていることは確かである。
最近,「年金だけでは生活できない」という下流老人が激増しており,医療受診を敬遠する,「医療難民」の増加もクローズアップされはじめた。同時に独居老人増加にたいする対策や在宅体制など,難問山積ながらその対策も急務となってきた。
「いつでも」,「どこでも」,「だれでも」安心して受診できる国民皆保険制度(昭和36年)が始まってからすでに55年。半世紀を超える実績は世界に誇れる制度として,各国から注目を集めている。まさに世界の医療界でのキラ星でもある。公平性,平等性を具現した制度で,国民生活にもしっかりと根を張り,その恩恵は計り知れない。が,いまその素晴らしい制度にも厳しい現実が迫ってきている。
ここで警戒すべきは,アメリカのような自由競争によって医療前線に市場原理を導入しようと目論む動向であろう。表向きは農業問題ばかりクローズアップされているTPP(環太平洋連携協定)の中にも,医療問題もいろいろな形の影がそっと潜り込んでいると思われる。医療は教育とともに皆が共有する社会的共通資本であり,国民皆保険制度こそは人間の命の安全保障でもあるといわれる。医療を受ける側と提供する側が一体になってこの制度を守り抜くための防波堤となることが焦眉の急である。
戦後70年を総括しながら医療界と国民が築きあげてきた皆保険制度の金字塔を再検討,反芻し,古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」をもって80年へのNEXT WORLDへ踏み出していこう。

|
このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2016 |