=== 新春随筆 ===
そ も そ も 論 |
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鹿児島大学大学院医歯学総合研究科
離島へき地医療人育成センター/地域医療学分野 教授 大脇 哲洋
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2015年春から,医学部教務委員会医学科部会長を拝命している。それだからと言うわけでもなく,これまでも感じているのであるが,鹿児島大学が地方大学として,県唯一の医学部を有しているとはいえ,地域で働く医師を育てることを第一に考えていて,そもそも,それでよいのか?という自問である。世界で活躍する,グローバルな医師を育てたいとも考えるのである。おそらく,基礎系だけでなく,臨床系の教授も皆,少しは考えるところだと思う。平成16年頃までは,「地域で働く医師を…」とはあまり耳にしなかった。鹿児島県内に残る研修医が激減した10年間で,すっかり地元志向に考えが行かざるを得なくなってしまった。背に腹は変えられぬ現状なのである。都会の(研修医が多く集まる)旧帝国大学との格差は,教育者の気持ちの面からも広がってしまったのでは,と心配になっている。
大学において地域医療の講義をしながら,地域の良さ,地域医療の重要性を説きながら何を言うか!と言われるかもしれないが,別段全ての医学生が,地域医療に従事してもらいたいとは考えていない。地域に注目する医師も必要であり,ゼロでは困るというところである。都市部で医療を行っている場合でも,地方の患者を受け入れたときに,その患者の背景に深く共感できるような医師に,全員になっていただきたいと思っている。そしてまた,世界で活躍する医師になっていく学生が,鹿児島大学から育ってほしい。世界で活躍しつつも,鹿児島だけでなく,世界のそれぞれのへき地や離島での医療を想像しながら,診療・研究・教育を推進できる様な,そんな医療者になっていただきたいと考えている。
かつて,明治維新の時に薩摩の有能な人材は東京に行ってしまった。才能を開花させ,それを実践するには新政府東京の地でなければ力を発揮できなかったためである。そしてその一部は,新政府のやり方に不満を持ち,薩摩に帰国し,西南戦争で自らを葬ったのである。かくして,鹿児島の優秀な人材の多くが失われてしまった。明治初期,九州で一番人口が多かった,鹿児島ではその力がありながらも,西南戦争のマイナス因子と優秀な人材の喪失,大久保利通の暗殺などが起きてしまったために,大学改革に名乗りを上げることができなかった。帝国大学を誘致できなかったのではないかと勝手に思っている。田舎の人間のやっかみであるが,東京だけに存在した帝国大学が,京都にもできたのには,京都出身の西園寺公望の尽力であり,その後九州・東北にできたのは東北盛岡出身の原 敬が副社長を務めていた古河鉱業(古河財閥)の資金提供のおかげである。ちなみにこの資金は,日露戦争によって得た財である。薩摩の人間はその頃には,優秀な人材を多く失ったことと,西南戦争の負い目からか地元贔屓を声高にいえる状況になかったのかもしれない。
鹿児島中央駅の前の「若き薩摩の群像」では,鹿児島から海外に留学し,学んだ後に鹿児島県外で成功した者たちが称えられているが,鹿児島県外で無ければ成功と言えなかった時代から,現在は大きく変わっている。情報化社会においては,どこでも最先端の物が手に入り,発信できる。これは学問の世界だけではなく,音楽や文学の世界でも同じである。更に最近では方言が再認識され,画一的な文化ではなく,個性をもった地方の文化が日の目を見つつある。鹿児島にも多くの方言が存在する。鹿児島本土の鹿児島弁だけではなく,奄美地域の方言は非常に興味深い。2015年2月に,鹿児島大学の医療系学科3科(医学科,保健学科,歯学部)の1年生を連れて,与論島の方言調査を行った。奄美地域では,あまりにもことばが異なるために,医療面接において方言を使われたら全く解らない。そこで医療に関する用語を中心に,与論島の方言を理解し,できれば使うために翻訳表の作成を行ったのである。こうした地方回帰の現象は,今後の地域再生の大きな流れになってくるであろうし,地域からの様々な情報発信や,地域での成果が都市部との格差を無くしていくであろう。
そもそも,学問とは何なのか?探求する事は何なのか?必ず利益をもたらすものだけが学問ではなく,探求そのものにも意義はある。地方で医療をやりながら新しい発見があれば,医療を発展させる気概を持って世の中に出していく。それと共に,工夫によって,どこでも望み望まれる医療を展開できる能力を引き出せる人材を育成する。診療をしながら探求する,学問的な考え方を学ぶ場としても,地域が非常に有効な場所なのだろう。与論の地元の方々の温かさに触れ,方言の奥深さに感動し,医療を通した人との繋がりは,現場でなくては伝わらない。地域をフィールドとし,人類に不可欠な医学の重要性を,臨床的,学問的に感じてもらえるようにしたいと考えている。
そもそも,医師とはどうあるべきか?長崎大学医学部の前身である医学伝習所において,日本ではじめて系統立てた西洋医学を教えたポンペは,「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は自分自身のものではなく,病める人のものである。もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい」と言ったとされ,長崎大学医学部の基礎研究棟玄関ホールに,これが刻まれたポンペ顕彰記念銘板がある。しかしながら,これは現代ではちょっと違ってきている。特に女性医師にはそっぽを向かれる内容である。自分の生活があり,そして地域住民の一員として地域医療に携わる。修練を怠らず,継続的に住民の望む医療を一緒に考える。こうした医師が地域医療の医師として育ってくれたら良い。
そもそも,“育ってくれたら良い”と言いつつ,自分は人に教えるような才能にも,能力にも乏しく,俗世界にどっぷりのふとどき者である。そんな人間が多くを語る資格はないのであるが,このようにグダグダと考える機会を与えられたことに,深く周りの皆様に感謝するところである。そもそも…と難しく考える事は,そもそも性に合わないのかもしれない。
そもそも医師とは,患者や住民に教わり成長していくものなのだ。世界に羽ばたく人材育成を目指しつつ,心は地元にあるような温かな人格形成が行えればよいし,その中で目の前の患者に深く接して,地域に貢献したいという医師が育ってくれるような,患者や住民と接するフィールド作りができたら幸いである。

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