随筆・その他
酒にまつわる思い出
-四半世紀を振り返る-
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本来このような場にそぐわない私であるが,ひょんな流れで,医師会報のリレー随筆の執筆を仰せつかった。テーマは『自由』,何でもよいという。自由というのも困りもので,さて皆様に何を紹介しようかと,あれこれ身の回りのネタを探してみたが,なかなか見当たらない。締め切りを気にしながらも時間だけが経過していった。そんな矢先,たまたま大学卒業後20年の同窓会に出席したのだが,昔,明け方まで飲み明かした友人たちと久しぶりに囲む酒の席で,私の酒とのつきあいもずいぶん変わったものだなと感じる機会があった。卒業後20年ということは,大学に入学してから四半世紀たったということになる。このタイミングで今回の話をいただいたのも,「今ここで自分を振り返ってみろ」という天の声ではないかと思い,酒にまつわる自分の歴史をこの場でつぶやいてみようと思い立った。酒の場だからと楽しいことばかりではなかったし,苦い思い出も多々ある。共感いただける箇所もあるのではないかとも。しばしおつきあいいただきたい。
学生時代
私は高校までを福岡で過ごし,大学入学を機にここ鹿児島にやってきた。趣味らしきものを持たない私は人とのコミュニケーションをとる術が少なく,酒はその中でも数少ない手段であった。おかげで友人もでき,天文館(東千石)の方へ足が向くことが増えていった。行きつけの店もでき,従業員だけでなく,常連客とも知り合いになっていった。鹿児島に来たばかりの頃は飲めなかった芋焼酎も飲み方を教えてもらい,美味しく飲めるようになった。年上のいろいろな職業の人たちとの出会いも,まだまだ世間を知らない私には新鮮で楽しかった。時には説教されることもあったが,よい思い出である。失敗もたくさんあった。今であれば許されないことも許してもらったように思う。酒の場で多くの社会勉強をさせていただき,その恩恵も受けた。薄っぺらな自分であったが,そんな私に少し厚みを持たせてくれた場であった。
転機 1 東京時代
ある先輩との出会いもあり,東京で仕事をすることになった。今から14年前,32歳のころである。仕事はもちろん,生活が大きく変わった時代である。今回は酒にまつわる話ということで,仕事の面は割愛させていただく。
東京というところは美味しい酒が飲める店はたくさんあったのだが,この時の私にはいかんせん時間と金がなかった。必然的に自宅での楽しみを求めるようになった。当時,職場が築地で,官舎が世田谷の駒沢公園近くにあった。地下鉄を利用して1時間弱の通勤を余儀なくされた。東京をご存じの方はお分かりかと思われるが,この沿線は途中渋谷で乗り換えることになる。少し早く帰路につくことができた日には,渋谷のデパ地下に立ち寄るのが,このころの私にとってのささやかな楽しみであった。デパートでは全国各地の珍しい日本酒,焼酎をリーズナブルに購入することができた。さすがに鹿児島の焼酎を買うことはなかったように記憶している。日本酒を購入することが多かったのだが,それにあう珍しいつまみを買うのも楽しみであった。この時間,ちょうど閉店間際で,値引きのかかるものが多かったのも,当時大きな救いであった。
東京では昼間から酒を楽しむ人を多くみかけた。電車でいろいろな場所に行くことができるため,ハンドルを握ることを考えなくて済むことも大きかったと思われる。また日曜の昼間に駒沢公園を訪れるとベンチに座って,ワインを楽しむ人を見かけることもあった。これらの光景は実に斬新かつ解放的で「昼間に」,「外で」,「酒を」,この3つはこれ以降,私のあこがれともなった。
転機 2 去年6月
東京で3年弱過ごした後,鹿児島にもどってきた。東京では歩くことが多かった。しかも歩くスピードも速い。鹿児島では自家用車での生活で歩くことが減った。同じような酒の飲み方をすると,めきめきと体重が増えた。妻から注意されても,検診のデータが悪くてもそこは知らんふり。40歳を過ぎると痛風発作も2回経験した。痛みや腫れが長びくことがなかったため,生活習慣を改めることはなかった。喉元過ぎれば・・・・何とやらである。
しかし,去年6月,当直中に左足の激痛を感じた。当然,その日の飲酒はなく,この前後も深酒はしていないのだが,今回は痛みの質が違った。一晩中痛くて,寝ることができなかった [NSAIDs(非ステロイド性抗炎症薬)にアレルギーがあるためである]。ちょうどその時は福岡行きを控えていた。足を引きずりながら天神を歩く私をみる妻の視線が痛かった。滞在の大半を費やすつもりであった酒との時間を楽しむこともできなかった。翌朝足の腫れが強く,履いてきた靴が入らず,途中デパートにかけこんで,ベルトで着脱するタイプのサンダルを購入せざるを得なくなった。これはとんだ出費であった。そんな足でなんとか鹿児島へ帰ってきたのだが,痛みと腫れは続いた。2週間程回復にかかった。その間妻はもちろん,子どもたちの私を見る目までも違ってきた。自分の立場も揺らぎかねない。このままではいけないと一念発起することにした。
まずは食事(特に炭水化物,糖質),酒のコントロールを徹底し,運動,サプリメントも追加した。家族にも多くの協力,サポートをもらった。1週間で1kgずつ減っていくペースで,2カ月で10kg近く減量することに成功した。内臓脂肪率も10%近く減った。そのころから飲酒を再開することにした。ビールや日本酒ではなく,健康によいと聞いていた赤ワインを嗜むことにした。そこから波及してスパークリングワイン(本当はシャンパンがよいのだが)を今は楽しんでいる。
尿酸値が高い患者さんに,酒と一緒にたくさんの水を飲むように指導している先輩の姿を思い出した。当時はそんなことは無理だと思っていたのだが,実践するようにした。今でも酒を飲むときは一緒に水を飲むようにしている。そのお蔭もあるのか,痛風発作はその後ない。お守り代わりにコルヒチンはもっているが,尿酸値を下げる薬は飲んでいない。今年の検診の尿酸値は7とまだ高いが,肝機能・脂質は正常化した。酒の嗜好が変わったお蔭で食生活も随分変わったように思う。
あれから1年が経つ。体内の代謝も変わったのか,リバウンドせず,体重もキープできている。飲酒に関してはワインや焼酎中心の生活を続けており,いろいろな店を回っては安くて美味しいワインを探すことを楽しんでいる。子どもの学年も上がり,習い事や塾の送迎に夜間車を運転する機会が増え,酒を楽しむ時間が減ったことも,よかったのかと思っている(つきあいは減ってしまったのだが)。
酒に関した失敗
このことに関しては数えきれない。先日も横浜で学会に参加した際,東京でお世話になった先生と東京駅の近辺で食事をする機会があった。久しぶりの再会で飲みすぎたのかもしれない。食事を済ませ,横浜に戻る時間になった。ホテルが新横浜駅の近くということもあり,手っ取り早く新幹線を利用することにした。乗車したのはよかったのだが,気づいた時には新横浜を過ぎていた。あわてて車掌に確認すると「名古屋まで停車しない」と言われ,青ざめた。名古屋で東京に向かう最終の新幹線に乗車可能だと知り,ほっとした。1本遅い新幹線だったら,名古屋で宿を探さなければならない羽目になるところであった。(余談だが,東京行きの最終新幹線は人が多く,車両デッキまで乗客があふれていた。名古屋方面に向かう人も多く,東京,名古屋間の人の行き来の多さを再確認したところであった。)
朝,起きて妻の視線が厳しいこともある。大体その時は,前日の記憶があいまいである。以前は妻だけだったのが,最近は子どもたちの視線が冷たいこともある。よく言われる。「酒は飲んでも呑まれるな」。
これを読まれている中にも,ご迷惑をおかけした方がおられるかと思う。
この場をお借りしてお詫び申し上げたい。
未来へ
今年,46歳になった。50歳も近い。子どもも3人,上が中3男,下二人が女の子で小6,小4となった。車での送迎生活もまだしばらく続く。ゆっくりとした時間がとれるのも先になりそうである。少ない時間を大事にして,好きな酒と共存できるよう生活したい。家族にあきれられないように。体型だけでなく,酒の場でスマートに振る舞える自分であれるように。
四半世紀近い自分の歴史を,主に3つの節目を中心に振り返った。今一度,ここで反省し,未来へ向けて新たな決意を固めることができた。このような機会を与えていただいたことを感謝しつつ,そろそろ筆を置こうと思う。駄文におつきあいいただいたことに感謝して。
| 次号は,今村病院分院の矢野貴文先生のご執筆です。(編集委員会) |

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