[緑陰随筆特集]

玉  音  放  送

     中央区・清滝支部
(さめしま小児科) 鮫島 信一

 昭和20年8月15日正午から約40分間放送された終戦を告知する放送の中で,昭和天皇が戦争の終結とポツダム宣言の受諾を告げる詔書を朗読された。
 朗読の時間は約5分間であったが,天皇の御声は玉音と敬称された。
 この玉音原稿「終戦の詔勅」を書いた人は,鈴木内閣書記長官 迫水久常さんであったのはよく知られている。「耐え難きを耐え,忍び難きを忍び・・・・」の名文は,徳川幕府の薩摩潰しの陰謀であった木曽川治水工事(宝暦治水)の難題を完成しながら,過大な経費や人的被害の責任をとって自害した,薩摩藩士平田靭負(ゆきえ)の発言の一齣であるが,郷中教育を受けた薩摩隼人の迫水さんが引用してさらに名文となった。
 大東亜戦争敗戦直前の軍部は,本土決戦,一億総玉砕を主張する徹底抗戦者が主流を占めていたので,「終戦詔勅のレコード」が無事放送されるのは至難の業であった。それを何の滞りも無く,無事に放送を成就させた影の人物がいた。
 今にして思えば,日本の命運を決定付けた偉大な人物と称たたえて良いと思う。鹿児島県薩摩郡黒木村出身の一戸(旧姓柏原)公哉さんであった。氏は陸大を主席で卒業し,陸大校長の陸軍大将 一戸兵衛(明治神宮宮司,勲一等,功二級)に見込まれ,婿養子になっていた。終戦当時は陸軍中佐・近衛師団参謀であった。母親は鹿児島県揖宿郡頴娃村郡 小山八郎大の次女で,私の祖母 鮫島ナセの妹であった。
 本土決戦,一億総玉砕を最も激しく主張する近衛師団の中枢にいて,戦局をわきまえ,将来の日本の再興を託しての決断と,放送への邪魔を排して,戦禍の幕引きを平穏に成就した手腕は高く評価して欲しいと,終戦記念日が来るたびに思いを新たにしている。
 「本来,軍法作戦会議にかけるべき重要案件であったが,かければ否決されるのが目にみえていたので,軍事裁判は銃殺を覚悟しての,独断遂行であった」と公哉が漏らしていたと公哉さんの兄 小山公利さん(陸軍大佐,大本営参謀:頴娃村郡在住)に聞いたことがあった。
 終戦後は兄弟二人ともA級戦犯として巣鴨刑務所に拘置されたが,除刑後は公哉さんは渋谷に住んでおられた。私は,昭和35年東京の国立大蔵病院でインターンをしたので,挨拶にお宅を伺ったが,物静かな語り口調の中に,鋭き眼光でにらまれるのが恐い印象であった。
 その後,浜松日体高等学校校長に迎えられ,好きな野球を応援の途中,心筋梗塞を起こし,帰らぬ人となった。
 玉音放送により,本土決戦,一億総玉砕主張の軍部が軟化し,戦争は終結した。敗戦後は,武力による戦争を放棄し,平和国家としてスタートした日本が,多くの苦しみを乗り越えて,今は経済大国として発展していることに深い喜びを感じている爺児医です。



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