[緑陰随筆特集]

悟(さと)  り

     南区・谷山支部 水枝谷 渉
 悟という字の成り立ちはリッシンベンにワレ,字義は自分を見出した心のうち,つまり低迷の末真理に到達した心境あるいは迷いから覚めて確信を掴んだことの意であろうか。16世紀後半,フランスの哲学者デカルトは,形而上学の自己に飽き足らず,人間にはhomo sapiens特有の精神が存在することを付け加えて考えるべきであるという展開理論から,“考えるわれ”の存在こそが自己の本質と結論づけた。彼が残した「われ疑うがゆえにわれあり」という言葉は彼が追求し続けた哲学上の究極理念であったが,どこか悟という漢字の成り立ちに似て興味深い。
 修験者が,山にこもって悟りを開いたという話はよく耳にする。山でないと悟りが開けないのは,紅灯の巷や世俗にあっては,物欲に惑わされて一向に精神統一ができない人間の弱みを断ち切るためであろう。ところが何カ月いや何年修行しても一向に悟りの域に達し得ず,ただ山にこもったということだけで,目標理念に達したとか何かを会得したという実績など全く見られない者も多い。一方で,突然脳裏に閃いて悟りの域に到達する人もいる。以下比較的最近の情報(日医ニュース,№1252,2013.11.5)に掲載されたあるエピソードをご紹介し,悟りの意義を解析してみた。
 アメリカ合衆国のある大学に留学した日本人研修医が,精神科外来当直の夜,訪れる患者のほとんどが「死にたい」という悩みを訴える中で,それとはまるで反対の症例に遭遇することになった。付き添ってきたいかにも純朴な人柄を感じさせる夫が説明する内容は,一週間前の夜,帰宅すると喜色満面に出迎えた妻が「あなた!私,ついに生きることの意味がわかったわ」と語りかけてきた。それは真理を掴んで悟りの域に到達したことを物語るに十分であった。が,それからが通常の話とは少し違ってくる。家に入ると部屋のすべてが花で飾られ,ローソクが灯されていた。以前にも躁鬱病の既往があったが,これほどではなかった,というのは,今回は夜もほとんど眠らず,まだ幼い娘の世話もしないで家を空けるようになった・・・という概略であった。初めての入院患者を受け持つことになった研修医は,彼女の初診時の印象を“たった今,晩餐会から抜け出してきたような華やかな装い,整えられた金髪やイヤリングなどよりも,喜びにあふれて勝ち誇ったような青い瞳の輝き,それは彼女が躁の状態であることを直感させるに十分であった”と述べている(病名など記載は原文に準拠)。
 さて,思慮熟考の末に到達した真理と,一瞬の閃きで得た悟りの心境との違いなど専門医でもない筆者が論ずる資格などないのであるが,彼女のあの夜の状態,たとえ躁にしろ,生きることの意味をどう捕らえたのか,何がしかの見解が聞けなかったものか,悔やまれるのだが愚問であろうか。
 佛教の開祖,釈迦の悟りの全容を知るすべもないが,先祖の供養に訪れる寺の住職の話から垣間みる釈迦の悟りとは“人は誰しも生まれ落ちる時が苦難の道の始まりにして,人生の終わるとき,そのすべての苦難から解放され,佛に生まれ変わって永遠の道が開けゆく”ということであった。王家に生まれ育った彼,釈迦の幼少時の眼に映った光景は,街や村に溢れる貧しい生活に喘ぐ民の姿であった。彼は生きてゆく目標も手だてもなく,日々無為に暮らしているこれらの人々を救わねばという衝動に駆られ,地位も家庭も捨て,29歳のとき意を決して修行の旅に出た。人間とは何かを探求する中で,苦しみをいかに安んずるか,そして誰にしも訪れる死をいかに安らかに迎えさせるかを,すべての民衆が納得できるように説くことに専念したと思える。苦を楽で相殺し,死を自然に昇華させて佛への化身,われわれが日常,何の気なしに使っている「生前」という言葉の意味は,佛に生まれ変わる前,つまりこの世にある刹那ということの言い回し,鮮やかな説法と言えよう。
 デカルトが自身自らの存在を疑うことによって到達したワレ,釈迦の説く苦しみの中に安らぎを見出せる人生の過程の中でのワレ,2つに共通する点は,生きている自分の存在意義を見出させるそれぞれの考え方であるが,万人に納得のゆく説明ができるということである。あの躁の極点にあった女性が夫に言った“生きることの意味がわかったわ”という心境も,異常な心理下にあって恐らく万人を納得させ得るだけの論理や説明ができなかったにしろ,自分では自身を燃え盛る炎の中に立つ客観的偶像に見たてていたのであろうか,生きることの意味をどう掴んでいたのか聞かせて欲しいという余韻を残したままで,あのエピソードは終わっていた。



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