【緑陰銷夏】
夏になると思い出すことがあります。
それは38年前の夏,7月20日に一人で北海道の稚内を出発し,野宿をしながら2カ月かけて鹿児島まで歩いたことです。当時まだ世間知らずの学生の私には,まさに冒険旅行でした。途中,見ず知らずの多くの人達から温かい激励をいただいたことや,目的地の鹿児島にようやく到着した時の感激は,今でも懐かしい思い出です。
ただ,歩いた時期が真夏だったため,歩き始めた北海道で,強烈な陽差しに焼かれた腕や足が水ぶくれになったのには驚きました。鹿児島出身の私が,まさか北海道で日焼けで水ぶくれになるとは想像もしていませんでした。
そんな暑さの中を毎日鹿児島を目指して歩き続けるのですが,灼熱の陽射しを避けようにも,道路に緑陰は無く銷夏どころではありませんでした。熱で景色が陽炎のように揺らぐ道をひたすら歩くしかなかった,そのことを夏が来ると思い出します。
【お医者さんと警察官】
6年前に妻が水泳を始めたことから,私も金魚のフンのように妻の後を追ってプールに通い始めました。今ではプール仲間も増え,大会に出たりして水泳を楽しんでいます。
しかし,水泳で困ったことが一つあります。それは,プールへの携帯電話の持ち込みが禁止されていることです。私は,仕事柄,休日・夜間を問わず職場からの緊急連絡や呼び出しがあるため,泳いでいる間は,職場からの緊急連絡が来ないか気が気でなりません。そのためスポーツクラブ(SC)に「職場から緊急連絡があったときには呼び出しをして欲しい」と幾度となく頼みましたが,SCにも事情があるらしく,呼び出しをしてくれません。
そのやりとりの中でSCのスタッフが「そのような相談をされる人は,大抵はお医者さんか警察官ですよ」と言っていました。医師の皆様のお仕事も,担当する患者さんの容体の変化などによって,昼夜を問わず緊急連絡や呼び出しがある大変なお仕事だと思うと同時に,そのような事態に使命感を持って対応されておられることに感謝の念を覚えた次第です。
ちなみにプールでの呼び出しの件ですが,練習の合間合間に仕方なくプールから上がってはロッカールームに走り,携帯電話を見て再びプールに戻るという,何ともせわしい方法でとりあえず緊急連絡の確認をしています。
【犯罪の大波】
さて,今,鹿児島県の犯罪は順調に減少し続けています。しかし,ここに至るまでの道は決して平坦では無く,戦後,本県では,犯罪が多発した厳しい時期を2回経験しています。
まず最初の多発期は,終戦直後です。この時期に犯罪が多発したというのは理解しやすいのではないかと思います。敗戦によって焦土化した日本では,その混乱に乗じて犯罪が多発し,本県でも年間2万件前後の犯罪が発生しました。これが終戦直後に押し寄せた戦後1回目の犯罪の「大波」です。この犯罪の大波は昭和29年にピークを迎えます。
【高度成長になって犯罪減少】
そして,昭和30年になると減少に転じ,昭和50年には約1万1千件まで減りました。この時の減少は,戦後日本経済の高度成長と反比例しているところが面白いです。
いざなぎ景気も加えた昭和30年から昭和50年までが戦後経済の高度成長期間とも言われていますが,この高度成長と鹿児島県の刑法犯認知件数を比べてみますと,多発していた犯罪は昭和30年から減少を始め,その減少は昭和50年に高度成長が終わったと同時に止まりました。反比例の始期と終期がピッタリ一致しており,「景気が良ければ犯罪が減る」の格言どおりです。
【バブル経済なのに犯罪増加】
しかし,翌51年から一転して犯罪が増え始めます。しかも,昭和61年からのバブル経済に入ってからも犯罪が多発し続け,「景気が良ければ犯罪が減る」の格言はあえなく消滅し,あれよあれよという間に戦後2回目の犯罪の大波を迎えてしまいました。結局,その大波は,昭和62年と平成13年の二つをピークとする18年間に及ぶ大波になってしまったのです。この間,全国ではオウム真理教による地下鉄サリン事件など社会を震撼させる多くの凶悪事件が発生しています。
このように景気の良し悪しに関わらず犯罪が増加した原因については,社会の規範意識の低下,地域の絆の希薄化,家庭・学校における教育,犯罪の国際化など色々なことが当時言われたところです。
(余談ですが,地下鉄サリン事件が発生した当時,私は霞ヶ関で勤務をしていました。その朝,いつものように4階の窓を開けたところ,下にある地下鉄霞ヶ関駅の出口から出てきた人達が路上にバタバタ倒れていく光景が目に飛び込んできました。あの悲惨な状況は20年経った今でも脳裏から離れません。
当時,オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫の体を私の左肩で突き飛ばしたことがあるのですが,それを詳しく書けないのが残念です。)
戦後2回目の犯罪の大波では,鹿児島県の場合,刑法犯認知件数が戦後最少だった昭和50年に比べ約2倍に増加しました。しかし,全国はさらに荒波が吹き荒れ,最少時に比べ約3倍も増加するという危機的な状況となっていました。
【アメリカの大波】
この危機的状況への対応をお話しする前に,アメリカの犯罪に少し触れておきたいと思います。
第二次世界大戦後,アメリカの治安は比較的平穏に推移していました。ところが6万人もの死者を出して泥沼に陥ったベトナム戦争(昭和35~50年)で状況は一変し,政府・社会への不満が渦巻き,アメリカ社会は混迷の時代に入り,犯罪が増加していったのです。
これに対してアメリカの警察は素早い対応を見せます。その代表がパトカーの増強による機動力の強化です。さすがは世界で最初にパトカーを導入した国だけのことはあります。
パトカーの増強は大当たりでした。犯罪が発生すると多くのパトカーがわんさかと駆けつけて犯人を捕まえるのですから,市民やマスコミは警察に拍手喝采を送ったのです。これに気をよくした警察はさらに機動力強化に走ります。
ところがいつまで経っても犯罪は減りません。理由は犯人検挙のための機動力の強化だけに力を入れ過ぎたためです。犯罪を減らすには,根源的な対策をも講じるべきであるのに,それがなおざりにされてしまっていたのです。そのことが次の「Broken Windows」という論文の中で指摘されています。
【Broken Windows】
機動力を強化したのに犯罪が減らない中,そこに登場したのが昭和52年の「Broken Windows」(割れ窓理論)という論文です。アメリカ人の学者二人によるこの論文は,社会から犯罪を減らすために必要なプロセスを,膨大な検証と分析を基に提言しています。
この論文のテーマは,いかにして犯罪を減らすか,その1点です。内容は,犯罪が起きてから警察が駆けつけても市民の安全は守られない,最優先事項は市民が犯罪被害に遭わない社会をつくることだ,そのためには社会全体が一つになって取り組むことが不可欠である,だいたいそのようなことが書かれています(同論文の翻訳本発刊のための翻訳に携わらさせていただいたことは私の自慢の一つです。と言っても英語がまるっきりダメな私は,翻訳後の校正を少ししただけですが)。
ちなみに論文の名前の「Broken Windows」は「割れたアパートの窓をそのまま放置していると,翌朝には別の窓も割られてしまっている,だから問題は小さなうちに解決することが大切である」ということからきたものです。
割れ窓理論を平成6年から実践したのがニューヨーク市のジュリアーニ市長です。その結果,犯罪が激減し,犯罪都市の象徴であった地下鉄にも安心して乗れるようになった話は有名です。
【アメリカ西海岸】
日本の刑法犯認知件数が戦後最悪を更新し続けていた平成12年,私はアメリカ西海岸の都市における治安対策を視察研究する機会をいただきました。ちょうど,野球の佐々木選手が大魔神と呼ばれ,シアトルマリナーズで活躍していた頃です。
視察先はシアトル,サンフランシスコ,ロサンジェルス,サンディエゴでしたが,どの都市も既に割れ窓理論の実践が進み,治安はおおむね回復した状態にありました。夜間の視察においても,一部の特別な場所を除き,それほど危険を感じることはなく,新宿の方が怖いという印象を持つほどでした。どの市警も住民により溶け込むことのできる徒歩によるパトロールを増やしていたため,至る所で徒歩でパトロールする制服警察官を見かけ,正直なところ「日本よりもはるかに多い!」と驚きました。人口比で日本の1.7倍の警察官定員を有するアメリカと単純に比較することはできませんが,パトロール中の制服警察官をあちこちで見かける街には安心感があります。
【犯罪抑止はコミュニケーションから】
徒歩によるパトロールの利点は,パトカーと違って市民と気軽に会話をする機会が増える点です。そのことによって,警察は市民と良好なコミュニケーションを構築することができます。すると地域の犯罪実態を把握できる,市民の警察への細かな要望を吸い上げることができる,あるいは犯人検挙に結びつく情報を得やすくなる,ということに繋がっていきます。
このような活動を進めることによって,警察と地域住民が一体となった防犯活動が生まれやすくなります。何事もまずはコミュニケーションが大切ということでしょうか。アメリカの警察が割れ窓理論を実践してそのことを証明し,元々それが得意だった本家の日本が逆にアメリカからそれを学んだ,という何とも皮肉な視察になりました。
【日本の治安再生】
アメリカが治安回復に成功したのですから,ここは日本警察としても負けてはおられません。ここから日本警察の総力戦が始まります。
まず平成14年,警察庁は現状を治安の分水嶺にあると位置付け,全国の都道府県警察に対して,犯罪抑止対策に総力を挙げて取り組むよう指示し,翌15年には「緊急治安対策プログラム」を示しました。さらに同年,政府に内閣総理大臣が主宰した全閣僚を構成員とする「犯罪対策閣僚会議」が設置され,国を挙げて治安回復に取り組むこととなったのです。
【外科か,内科か】
犯罪が発生してから犯人を検挙するための捜査をするのは,いわば対症療法です。表面に出現した社会の病理を取り除く外科的な対応と言えます。こちらの犯人検挙活動を外科とすれば,犯罪が発生しないよう未然防止の対策を予め講じる防犯活動は,内科的な措置と言えます。
犯罪を減少させるためには,どちらの方が重要かということでは無く,犯人検挙活動と防犯活動がうまく連動してこそ,犯罪の起きにくい安全で安心できる社会が実現できるはずです。しかし,日本の戦後最悪の刑法犯認知件数がピークに達した平成14年までは,どちらかと言うと外科の「検挙に勝る防犯無し」の論理が大勢を占めていたように思います。しかし,それだけでは,アメリカの機動力強化の失敗と同じで,増加の一途をたどる犯罪に歯止めを掛けることができないため,以後,あらゆる内科的措置を講ずることとなったのです。
【治安再生の処方箋】
内科的な措置として,例えば,集合住宅の設計段階から警察の意見を取り入れて犯罪が起きにくい建物造りを目指すとか,公園の植栽を低く刈り込んで死角を作らないとか,あるいは,子どものときから防犯知識を高めるための教育をするといった様々な取り組みがなされました。また,凶悪犯罪に対する厳罰化などの法律の改正や,防犯関連事業への自治体の予算化,携帯電話をはじめとする犯罪ツールへの犯罪インフラ対策などが次々となされ,まさに社会を挙げての対策がとられたのです。
そして,地域の安全を守るために住民の人達も立ち上がりました。防犯ボランティア団体や青色防犯パトロール隊が次々に結成され,昼夜を問わず防犯パトロールを始めたのです。これによって地域コミュニティーがパワーアップし,犯罪が起きにくい地域社会づくりが大きく前に進んだように思います。
本県は,平成17年以降,この10年で防犯ボランティア団体は3.7倍の796団体(約27,981人)に,青パト隊の車両数は10.5倍の1,677台になって,今や地域の安全を守る大きな力となっています。
【これから】
これらの内科的措置と外科的対応がうまく噛み合って,今,鹿児島県は,5年連続で刑法犯認知件数が戦後最少を更新し続け,また,10万人当たりの犯罪率も全国で7番目(平成26年統計)に低い状態にあり,安全が比較的良好に維持されているのではないかと思います。
ただ,犯罪が少なくなったとは言っても,県内では毎日22.5件の犯罪が認知され,それだけの人が犯罪被害に遭っているほか,殺人,強盗,強姦,放火などの凶悪犯罪も後を絶ちません。また,歴史が示すように,犯罪は突然増加に転じることがあり,しかも,その流れを止めるのは簡単ではなく,大変な労力と時間,多額の経費を要します。
このようなことを頭に入れつつ,県民の平穏な生活を支える一助になれるよう,日本一安全な鹿児島を目指して,署員と一丸になって全力で頑張りたいと思っています。
【最後に】
犯罪という社会の病理を取り除き,県民が安心して暮らせる社会を実現するために,警察もそれなりの努力をしていることをご理解いただだければ幸いです。
今回このような投稿の機会をいただいたことは大変光栄なことであり,心から感謝を申し上げます。また,鹿児島市医師会の皆様方には,署員の健康管理や留置人の健康診断,さらには検視などで多大なご協力を賜っていますことに対しまして,この機会をお借りして改めて御礼を申し上げます。


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