[緑陰随筆特集]
日 本 平 に 富 士 を 求 め て
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中央区・城山支部
(高見馬場リハビリテーション病院) 林 敏雄
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真 1 日本平ホテル全景(ホテル案内資料より)
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写真 2 ホテルの部屋からの眺望
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写真 3 拡大眺望
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写真 4 久能山ロープウェイ
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写真 5 東照宮拝殿への楼門(下)と唐門(上)
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写真 6 東照宮拝殿
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写真 7 家康公手形(左)と西洋時計(レプリカ)
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写真 8 清水次郎長の銅像
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写真 9 侠客次郎長の墓
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写真10 三保の松原から富士山頂(一部)を望む
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写真11 羽衣の松(左2代目,右3代目)
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写真12 登呂遺跡(上)と博物館内で火起こし体験
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富士山は小学唱歌にもあるようにどこから眺めても素晴らしい“日本一の山”だと思うが,平成25年世界遺産になったのに自然遺産ではなく“三保の松原”を含めて文化遺産となっている。静岡市の南には最高標高307mの日本平という丘陵があり,ゴルフ場,動物園や運動公園などがある。その中でも日本平ホテル(写真1)という富士山をメインに清水の街並みや港,三保の松原,遠くは伊豆半島まで大パノラマが展開して見られるという評判のホテルがあるというので,以前から一度行ってみたいと思っていた。そのホテルがやっととれたので,5月28日,家内同伴で2泊3日の旅に出ることができた。
鹿児島からは静岡富士空港行きの便があるのだが,午後の遅い時間に出発して,帰りは午前の早い便しかないので,結局新幹線でのんびり行くことにした。途中新装なったばかりの姫路城が見え,白鷺城の名の通り真白なので驚いた。夕刻,静岡駅からタクシーで丘の上のホテルに着いたが,春霞で残念ながら富士は見えなかった。鹿児島の城山観光ホテルとは調理関係で提携があるらしく,部屋を案内してくれた副支配人が,鹿児島に行ってきたばかりだそうで,桜島を目の前にした眺望も素晴らしいが,温泉の大浴場があるのが羨ましいと言っていた。ツインの部屋はかなり広く,ベランダとの仕切りは大型の一枚ガラスで眺望抜群であった。
夕食は和食で名物の桜エビのかき揚げが美味しくて,ほっぺたが落ちそうだった。ホテルは新装後3年目ということで,部屋から清水区の美しい夜景が見れて感激した。夜明けの4時過ぎ,目が覚めてカーテンの隙間から外を覗いたら,正面に富士のシルエットがしっかりと見えたので,今日は大丈夫だと胸が躍って眠れなかった。朝食後,部屋から富士の写真を撮ったりしていると(写真2,3),富士北側山麓の別荘にきていた家内の姉夫婦が,ベンツの新車でやってきて合流した。ホテルのレストランでランチをとっていると,ゴルフ場のような前庭グリーンの隅に可愛らしいヘリが停まっていた。大型の模型ヘリかと思ってメイドさんにたずねたら,焼津の人で自分で操縦してホテルにランチを食べに来るのだというので驚いた。
昼食後,家康没後,遺言で標高216mの久能山に祀られた東照宮参詣に出かけた。1年後日光東照宮に分霊されたが,現在見られる立派なものは20年後,3代将軍家光の時代に建てられたものだそうだ。今年は没後400年に当たり,4月に記念大祭を終えたばかりだという。徒歩で参拝すれば1,159段の石段を上らなければならないが,幸い日本平から殿様用の籠を模したロープウェイがあり(写真4),宝物館近くまで5分で到着できた。しかし楼門,唐門を越えて拝殿(写真5,6)までさらに100段の石段を上らなければならないので,私はカメラを家内に預けて宝物館で待つことにした。宝物館には家康はじめ歴代将軍の甲冑・刀剣に加え日常調度品もあり,とりわけ千葉県沖で難破したスペイン船から310人も助け出したお礼に,1611年,スペイン国王フェリペ3世から贈られた西洋時計が圧巻であった(写真7)。
久能山下山後,静岡市清水区の次郎長菩提寺・梅蔭禅寺を訪れた。遺物館の入り口近くに駿府城を模した石垣をバックに次郎長の銅像があり(写真8),風貌が大親分の貫禄十分で,右手にはサイコロを握っているという。遺物館には着衣,草鞋,煙管などの日用品や,親しかった幕臣山岡鉄舟から贈られた書「精神満腹」の額が掲示されていた。明治維新後は清水港開港に尽力し,英語塾を開いたり,富士裾野大開墾などの功績を絵にして壁に飾られていた。墓所には榎本武揚の書で「侠客清水次郎長の墓」と彫られた立派な墓石があった(写真9)。ただ右上部が削られているのが目立ち,不心得者がカケラを持てば金運が良いと信じて盗っていくらしく,警告の立礼が立っていた。その他お蝶夫人や大政,小政などの墓石がずらりと並んでいた。
翌朝ホテルをチェックアウトして三保の松原に向かった。ここは総延長7㎞,3万699本の松林で,ここから見る富士山は,昔から絵に描かれたり,写真に撮られたりで最高の絶景だという。しかし着いてみると雲がかかって頂上の一部しか見られないので残念だった(写真10)。羽衣伝説で有名な松は現在のは3代目だそうで,初代は1707年,富士大噴火の時海没し,2代目は立ち枯れてきたので2年前に3mの幹を残して伐採された(写真11)。
このあと静岡駅近くの登呂遺跡に寄った。この遺蹟は昭和18年に発見されたもので,弥生時代後期(1世紀)の集落,水田で,戦後の昭和22年から本格的発掘が行われた。竪穴式住居や高床式倉庫が再現され,平成22年に新装オープンした登呂博物館には多くの遺物の展示と,木棒で火を起こすなど体験学習ができるようになっていた(写真12)。
このあとホテルで昼食をとり,姉夫婦と別れて新幹線で帰途についた。
1590年,秀吉の小田原征伐の時,手柄のあった家康に褒美として駿府の領地と後北条(ゴホウジョウ)氏の関東の領地の入れ替えが行われた。これは秀吉が家康の力を恐れて京都・大阪から少しでも遠ざけたいという意味もあった。家康が居城をどこに構えるかに当たって小田原,鎌倉,江戸の3候補が挙がったが,結局江戸が選ばれた。その理由の一つに富士山が見えるというのがあったという。家康は江戸城から富士を眺めて故郷を偲んだのだろう。今ではスカイツリーにでも昇らなければ見られなくなった。

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