私がまだ小学校にも上がらぬ子どもの頃,いづろ通りから港に向かう広い通りの右側に当時としては大きな百貨店があった。そこで夏の一夜を開放して館内の電気を消して蛍を飛ばして子どもたちに蛍狩りを楽しませるというイベントがあった。随分昔の事だが楽しかったことを歳を取った今でも鮮明に覚えている。
昔は甲突川の岸辺に蛍が沢山いた。特に新上橋の中州の䓔の草むらには特に多く,蛍の明かりで本が読めるぐらいだった。私の家が川の畔だったので家の庭先にまで蛍がよく飛んできて子どもたちはそれをつかまえて蚊帳の中に入れ蛍の点滅を楽しんでいつの間にか寝入っていたことも覚えている。
太平洋戦争で敗戦となり早速進駐軍がやってきた。彼らはマラリア,デング熱,発疹チフス等の伝染病を極端に怖がった。媒介になる蚊,蠅,蚤,虱を怖がりその駆除に懸命だった。その厳しい命令により引揚者を含めて全市民を集めてDDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の散布を強制した。男女年齢を問わず市民の下着にホースを差し込み,頭から背中,腹およびその下腹まで全身真白くなるまで吹き付けるのだった。当然市民は嫌がったが当時はマッカーサーの命令は天皇より極めて強かったのだ。しかしおかげで全国にはびこっていた稲のウンカ,イナゴ,ハエ,蚊,虱などの有害昆虫が絶滅した。そのこと自体は本当にありがたい事だった。しかし害虫がいなくなったと同時に蜻蛉,トカゲなどの益虫も全滅した。数十年間全く虫がいなくなってきて世の中が寂しかった。
しかし十数年間経過した後,次第にまた蛍が動き出してきた。昭和30年ごろ小林の出の山までバス会社が貸し切りバスを出したりした。周囲の山全体が蛍の光でスーッと明るくなり,パッと消えるという見事なものだった。また平成の中ごろになると宮之城の川内川にも蛍船が運航された。ゆっつらと船を漕ぎだすと,両岸の藪に点滅する蛍の光が幻想的だった。周囲の農家が明かりを消して蛍を見やすくしてくれたという好意も嬉しかった。こうして次第に各所に蛍が光るようになった。広い田圃に無数の蛙が右に左にコロコロと鳴き交わす合唱のうねりは見事だった,そこに3つ4つ5つの蛍が飛び交うのもおおいに風情があった。ある病院では敷地の小川に蛍を飛ばして入院患者に鑑賞させる所もあった。
こうして昔の蛍が蘇ってきている。学校でも生徒にカワニナの養殖を指導したりしている。本当に頼もしい事だ。今後我々の目を楽しませて貰いたい。
ところが世間を見回すと科学は発達した。世の中は便利になったが自然の情緒は壊れていきつつあるのは寂しい。
一茶 大蛍 ゆらりゆらりと 通りけり
行け蛍 手のなる方え なる方え
芭蕉 蛍見や 船頭酔うて おぼつかな
草の葉を 落つるより飛ぶ 蛍かな

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