[「太原春雄先生を偲ぶ追悼文」特集]
太原先生の思い出
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鹿児島市医師会 顧問
(第13代鹿児島市医師会長) 鹿島 友義 |
鹿児島大学で太原春雄先生の講義を聴講することができた学年は余りないのではなかろうか。先生は九州大学胸部疾患研究所の医局からの派遣で郡元にあった赤十字診療所の院長を務めておられた。当時,鹿児島大学第一内科(金久卓也教授)から医局員がお手伝いに出張していたからか,先生は第一内科の客員となられるとともに,非常勤講師として,第一内科が分担していた呼吸器の概説講義の講師を依頼されたのだと思う。今,国立病院機構鹿児島医療センターがある私学校跡地に鹿児島大学病院があったころ,そこの臨床講義室で講義を聞いたと記憶しているので,医学部3年(今でいう5年生)のときだった。覚えているのは,当時としてはかなり新しい傾向であったが,専門用語を英語で示されたようだった。種本はセシールの内科書ではないかと思いつつ,歯切れのいい要を得た概説講義を聞いたことをはっきり記憶している。
続いての記憶は小生が第一内科に入局してからの思い出である。先生は郡元の診療所が,谷山の赤十字病院に併合されるために,廃止となったのを契機に紫原でご開業になったのだと思う。
残念ながら先生が呼吸器の概説講義をいつまで担当されたのか,林 茂文先生がご存命なら覚えておられるのではないかと思うが,残念ながら小生の記憶にはない。しかし,その後も客員として長く第一内科の同門会,開講記念会等にはよくご出席いただいた。医局長,副医局長等の雑用を長くやったので,そのたびに先生に連絡を取らせていただいたことも強く記憶に残っている。先生は堂々としておられ,金久先生も大変礼を尽しておられたので,このころ先生の前に出るのはかなり緊張したことも記憶に残っている。
その後,社会保険診療報酬支払基金の審査会でも大変お世話になった。縄田先生(元放射線科教授)についで審査委員会の委員長を務めておられた。審査のあり方,注意点等について細かくご教示いただいた。高い見識にもとづいた発言にはいつも眼を見張るものがあった。
図らずも小生が鹿児島市医師会の会長という大変な重責を担うことになり,長年,その見識の高さに敬意を抱いていた元会長の太原先生をお訪ねした。勤務医の分際で医師会会長になど名乗り出たことに先生は内心ではかなりのご批判,ご不満がおありだったのではないかと思ったが,先生から鹿児島市医師会の歴史,伝統,また会長が担うべき責務等について,教えていただいた。一番記憶に残っているのは,「事に当たって,いつもどうすることが会員のためになるかを考えなさい」ということであった。実際には会員のニーズが多面的であり,どう決定すべきか,会員の意見をまとめるのに苦労することが多かったが,先生のこの言葉はいつも小生の心の底にあり,小生の指針となったことを感謝している。会長になってからは,先任役員との合同の会合等で先生のお隣の席を汚すことも多く,奥様同伴で全国をドライブされること,先生のお好きなお酒の話等,それまで知らなかった先生のご趣味のお話も聞くことができた。
先生は,少し前まで結核審査会の中心でもあられ,鹿児島の医療界,呼吸器診療の領域で重鎮としてご尽力いただいた。ご高齢になってもごく最近までお元気であられたが,もう先生の温顔,ご声咳に接することができなくなって,寂しさひとしおであるが,先生から多くのものを学んだ一人として,せめて少しでも先生に近づきたいと思いつつ,先生のご生前のお姿を思い出している。

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