[「太原春雄先生を偲ぶ追悼文」特集]
太原春雄先生を偲んで
〜 先生ありがとうございました 〜
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東区・紫南支部
(今村小児科アレルギー科) 今村 正人 |
太原春雄先生の訃報に接し,まさか?と耳を疑いました。先生は昨年(平成26年)11月,体調をくずされて2回にわたり短期間の入院をされましたが,その後は小康状態とお聴きしていましたし,年末,年始はご自宅で過ごしておられたご様子でした。11月26日開催の鹿児島市医師会会員受賞祝賀会,12月中旬の紫南支部忘年会,年が明けての年始会には悠然,かくしゃくとした先生の姿はなく,何か物足りなさと一抹の寂しさを感じていました。年始会の翌日,新年のご挨拶に先生のお宅にお伺いしました。先生は普段の服装,しっかりとした足取りで玄関に出てこられ,全くといっていいくらい病人を感じさせないご様子でした。先生は,「お互い健康第一で,ぼつぼつ,ゆっくりしようね」と柔和な眼差しで私の健康状態を気遣ってくださいました。この時,先生の病状がどの程度なのかをはっきりとは知らず,まもなく回復されるものと思っていましたので,内心ほっとする思いでお宅をあとにしました。その後,先生のご様子はどうだろうかと思っていた矢先の2月10日,先生の訃報に接しました。温かい言葉をかけてくださったあの時がまさか,先生との別れになろうとは到底想像だにできず,残念でなりませんでした。昨年11月1日には,日本医師会館大講堂で地域医療の充実・発展および結核予防に貢献した功労者として日本医師会最高優功賞を受賞されましたが,そのお元気な先生が年明け間もない2月に他界されるとはとても信じがたいことです。
通夜,葬儀の席でのご子息太原博史君の挨拶の中で,先生がとてもきびしい病状であられたことを知りました。11月に病床にお邪魔した時も,お正月にご自宅にお伺いした時も淡々と笑みを浮かべて語られるお姿と目の前の先生のご遺影を重ね合わせて,あらためて先生の生きざまを見た思いがして,胸にせまるものがありました。
思い起こせば,先生との出会いは私が開業準備に取りかかった昭和55年,今からおよそ35年前のことです。当時は規制とまでは言わないまでも,開業に際して今よりも厳しい条件がつけられていたように感じていました。標榜する診療科,近隣医療施設との位置関係,市民への開業案内の内容・方法などについてです。医師会としては会員,とくに開業会員同志の融和を図ることを重視してのことと思います。当時,開業相談担当をしておられた太原先生(理事)に開業のご挨拶にご自宅にお伺いした際,先生は威厳ある面持ちで細かい注文は何もなく,言葉短かに受け入れてくださいました。かくして,昭和56年2月,当時の横小路会長のお膝元,甲東支部の一角でビル開業を始めました。和気あいあいの支部の先輩の先生方に支えられてひたすら診療に携わり,翌年には支部長を務めるなど,勤務医時代には得られなかった経験,勉強をさせていただきました。昭和60年5月に現在地へ移転,紫南支部会員としてお世話になることになりました。紫南支部には,市,県医師会の中枢を担っておられた尾辻達意先生,太原春雄先生,鮫島耕一郎先生というリーダーをはじめ,多士済々の会員の先生方から何かとご指導いただき,また励まし,支えていただきました。
昭和63年4月,太原先生が鹿児島市医師会会長に就任された同じ時に,私も理事を務めさせていただくことになるというご縁をいただき,先生が勇退された平成6年3月までの6年間は,先生のご指導のもとで医師会活動に携わるという貴重な経験をさせていただきました。その間,大学,大手民間検査会社等の臨床検査システムの見学・情報収集を行い,検討に検討を重ねて全国に先がけていち早く導入した全自動臨床検査システムによる会員支援,合意形成の難しかった支部再編成・区制導入へ向けての検討開始,夜間急病センター終夜365日体制の発足,8・6水害被災会員への支援をはじめ,先生は識見と英断,指導力で重要課題に取り組まれ,常に「会員のために」を基本に据えて10年後,20年後の医師会のあるべき姿を念頭に医師会をまとめ,牽引されました。執行部・職員も一丸となって事に当たったとの思いが強くあります。
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一休会旅行のひとこま(平成6年5月28日)
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京都御所紫宸殿前にて(平成6年10月30日)
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一方,先生は会員福祉にも心を配られました。会員,職員,家族,看護学生参加の市医師会大運動会は支部対抗形式で行われ,楽しみながら競い合い団結力を強めるという伝統的な一大行事でした。支部ごとの堂々の?入場行進に始まり,競争心をあおられながらも和気あいあいの競技,昼休憩時間には,多くの場合支部長が用意したお弁当開きと語らい,閉会式での成績発表と表彰,とくに15支部の中で会員参加率が最も高い支部への団結賞は支部の勲章ともいえる自慢の賞でした。開会式で入場行進に答礼される先生,閉会式で賞状を授与され,労いの気持ちを表される壇上の先生の姿が瞼に浮んでまいります。医師会職員諸氏には会場設営,競技運営,整理とご苦労の多いことでしたが,お蔭で医師会の一体感を共有できました。
先生はまた,会長として全国の各種会合,会議に出席されましたが,中でも全国学校保健・学校医大会には先生をはじめ学校保健担当役員,会員の先生方,担当事務職員共々毎年参加しました。会議のあと夜には先生を囲んで小宴会と盛り上がり,大会閉会後はミニ観光を楽しむなど,また,多忙な業務を一休み,息を抜いて楽しみ英気を養うという退任役員共々の執行部一休会旅行もよき思い出になっています。このように,先生は人の輪を大切にしておられました。日本酒を好まれ,お酒の席での先生のテーブルには焼酎,ビールに加えて必ず特注の?日本酒(冷酒)が用意されていました。
平成6年3月会長を勇退され,県医師会長への意欲も示されましたが,鹿児島市医師会顧問として医師会を見守り,医師会のバックボーンとして存在し続けられました。医師会を愛し,その発展を願い,会員参加の会合には進んで出席され,支部会では重要案件には意見を述べられるなど,終生お元気で,大黒柱としての存在感を示されました。
一方,折々に奥様とドライブを楽しんでおられました。愛車でのドライブはもとより,東北・北海道,更には海外でもレンタカーで旅を楽しまれるなど,その衰えを知らないエネルギー,行動力にはただただ驚かされるばかりでした。お孫さんと一緒に外国に旅をされたこともあるとのこと,家族をとても大事にしておられました。ロータリークラブの会員歴も長く,会長も務められ奉仕活動にも意を尽くされ,クラブ会員と外国にも足を運ばれ,恵まれない住民に支援の手を差し伸べておられます。自院での診療も続けて生涯現役で通されるなど,90歳を越えてもなおかくしゃくとして風格あるお姿は私たちの心を引きつけてやみませんでした。そのご逝去はまさに「巨星落つ」です。とても大きく,かけがえのない先生を失いました。
先生には何かと気にかけていただき,医師会での身の処し方についても心から相談に乗ってくださりご指導いただきましたこと,私の入院中,見舞いに来てくださり温かい言葉をかけてくださいましたことなど,いただきましたご厚情に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。きっとご苦労もあられたことでしょうが,先生は素晴らしい人生を送られたのだと思います。先生の遺徳を偲び,御霊の安らかならんことをお祈りして筆を置きます。
(追 記)
本原稿を書き終えようとしていた矢先に,先生の奥様が急逝されたとの報に接しました。先生が亡くなられてからわずか4カ月足らず,先生のあとを追うように逝かれました。「おれのところに早く来いよ」と先生が呼んでおられたかのようにさえ思われます。ほとんどお二人ご一緒に旅立たれたということに,あらためてお二人の強い絆を感じました。笑顔の素敵なお優しい奥様のご逝去はとても淋しいですが,これからも先生に寄り添い,先生と共に在られることを思うと何かほっと安堵する思いでもあります。心よりご冥福をお祈りいたします。
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| 在りし日のお二人(平成13年6月10日) |

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