[「太原春雄先生を偲ぶ追悼文」特集]

太原春雄先生を偲んで


鹿児島市医師会 監事
(元鹿児島市医師会副会長) 有馬  桂

 太原春雄先生が本年2月9日,93歳のご生涯を閉じられました。誠に痛恨の極みであります。心から哀悼の意を表します。先生におかれましては,昨年11月1日,日医の最高優功賞受賞のため上京されたあと,体調を崩され医師会病院へ入院されたと聞き,中旬,6階の病室へお見舞いに伺った時は,普段のお顔で「少し疲れたのだよ」と言っておられましたが,恒例の会員受賞祝賀会や年末の理事会の忘年懇談会も欠席され寂しい年末でした。正月はご自宅でお過ごしになり2月初め再入院されお顔を拝見する機会もなく天国へ旅立たれました。本当に寂しい限りであり残念でなりません。今はもう先生のご冥福をお祈りするばかりであります。
 私は,昭和59年から20年間鹿児島市医師会の執行部に在任しましたが,特にその前半の10年間太原先生にいろいろご指導を賜りました。衷心から感謝申し上げます。
 昭和59年4月,再選された久留克己会長のもと執行部がスタート,沖野秀一郎副会長と新たに松岡克己副会長が就任,新理事として東 洋一先生・海江田 健先生と有馬 桂が就任しました。当時,太原春雄先生は医政・保険・地域医療を主担当されておられました。理事会は旧医師会館1階の小会議室で行われていました。我々新米3理事は出口に近い天井にまだ電灯がない薄暗い席でした。遥か彼方の正面には真ん中に久留会長,両サイドに沖野・松岡副会長そして小川・太原・柴田・亀甲・今村・池田・時任・尾辻・石塚理事と錚々たる先輩が座っておられました。中でも太原理事は恰幅もよく低いお声で厳しい発言をされ畏敬の念で見ていました。新米3理事を代表する形で海江田理事が「お言葉ですが…」と発言するものなら,何をいうかと叱責されそうな雰囲気でした。昭和62年12月12日,久留会長が脳出血のため急逝され,その後沖野副会長が会長代行をお務めになっておりました。
 昭和63年4月,太原新執行部がスタートしました。太原春雄先生が会員の推薦により会長に選出されご就任,新たな副会長に尾辻達志先生が,理事として内宮禮一郎・田平禮章・林 茂文・鮫島信一・今村正人・中村雅弘先生方が就任されています。
太原会長から役員業務分担として庶務担当を命ぜられ,一瞬驚きました。それまで庶務担当は老練な大先輩である沖野先生そして小川先生が担当しておられた業務であり,私に務まるだろうかと大変不安でした。昭和59年4月理事就任後の4年間は,主に健康教育・学校保健・急病センターや臨床検査センターを担当しておりまして庶務的なことは疎いほうでした。庶務担当は全理事の業務をはじめ,医師会全体の運営にも目を配らなければなりません。太原会長がかねてから私どもに言っておられた「事を決めるにあたってはそれが会員のためになるかどうか,それがベターの方法か考えて対処することが大事だ」とのお言葉を信条にして業務に励んでおりました。理事は,それぞれの担当業務で実績を上げればそれなりに評価されますが,庶務の業務は事がスムーズにいって当たり前で,運営がうまくいかないと非難される割に合わない仕事で業務の実績は計れませんが,医師会の運営の要だと考えて私なりに頑張りました。
 10月には,当医師会の担当により城山観光ホテルで第25回九州首市医師会連絡協議会が開かれました。昭和64年1月7日,昭和天皇が崩御,1月8日から元号が「平成」と改められました。
 平成2年4月,太原執行部の2期目がスタートしました。7月,太原会長は,懸案事項であった,「支部再編成検討委員会(沖野秀一郎委員長他会員5人,執行部有馬)」と「定款等検討委員会(小川幸男委員長他会員4人,執行部鮫島理事・有馬)」を立ち上げられました。月1回のペースで12回委員会が開かれ,平成3年7月にそれぞれ答申されました。これを受けて平成12年,区が誕生しました。また,8月には,「救急医療検討委員会(鮫島実俊委員長他会員4人,執行部尾辻副会長・田平理事)」が発足,平成3年10月に答申が出されました。
緊急検査自動化システム起動式

 また,平成3年8月には検査センター全自動臨床検査システムが始動しました。9月9日には当医師会が平成3年度救急医療功労者厚生大臣表彰を受賞,太原会長が厚生省で表彰を受けられました。
 平成4年4月,太原執行部の3期目がスタートしました。6月,昭和53年3月発足した「休日夜間急病センター」が診療日を365日準夜帯に拡充し,名称が「鹿児島市医師会夜間急病センター」と変更されました。10月,鹿児島市医師会ファクシミリメールシステムが運用を開始しました。
 平成5年7月には,緊急検査自動化システムが始動しました。8月,鹿児島市を襲った8・6水害で会員医療施設が甚大な被害を受けましたが,会長専決で見舞金を出され,本会独自の災害特別融資制度を即座に設立されました。10月には,市医師会老人訪問看護ステーションが開所しております。12月には,市医師会勤務医会が設立されました。
 平成6年3月22日開かれた第163回定時代議員会の席上で,太原会長は退任のご挨拶をされました。それに対し,代議員からの緊急動議を受けて福崎三彦議長が謝辞を述べられました。以上鹿児島市医師会50年史を繙き,太原先生が会長を務められた6年間を振り返ってみますとこんなに数多くの業績をあげられたのかと改めて感服しております。中でも全自動臨床検査システム誕生までの経過が印象に残っています。昭和62年秋頃より自動化を取り入れた新しい検査システムの検討が開始され,昭和63年3月,高知医科大学中央検査部を小園部長・中田電算室長と私が視察しました。平成元年6月,新検査システム小委員会が発足し,全国各地の大学や検査施設を委員が手分けして視察,最後に平成2年5月,日立が開発した自動解析装置が秋田大学附属病院の検査室で稼働しているとの情報を得,急遽,太原会長・海江田理事・小園部長・中田課長と私の5人で秋田へ飛び立ちました。これが最後の視察でした。幸いに日立側でも積極的に新システム開発の機運が高まり,鹿児島市医師会方式による世界で初めての“全自動臨床検査システム”の共同開発が始まったのです。太原会長はいつも陣頭に立ち私どもを叱咤激励されました。先生は鹿児島市医師会が誇る“全自動検査システム”の生みの親です。秋田で思い出しましたが,太原先生は日本酒が大変お好きでした。全国学校保健・学校医大会,医師会共同利用施設連絡協議会や救急医療先進地視察などの折には,その地の銘酒がお土産の習わしでした。そして理事会の忘年会などで美味しそうに飲んでおられました。私は庶務担当理事として太原会長に3期6年間仕えさせていただきました。これまで庶務担当は1〜2期が多かったようですが,3期務めさせていただき,いまは誇りに思っています。その間,医師会の原点,活動の在り方についてじっくり教えていただきました。太原会長が退任された後10年間執行部に在籍しましたが,その間は勿論退任した後も先生のお教えを心の糧にして,日々診療に携わっております。先生はご退任後も,医師会の会合等で医師会顧問としていつも優しい眼差しで接していただきました。平成19年11月には,太原執行部で一緒に汗を流した理事OB11人で「太原春雄先生を囲む会」を,平成22年11月には同メンバー10人で「太原春雄先生の米寿をお祝いする会」を,また平成25年11月にはやはり同メンバー8人で「太原春雄先生の県民表彰をお祝いする会」を発起人代表:海江田 健先生,発起人:今村正人・浅野庄三先生・有馬 桂でさせていただきました。先生には,その度ごとに大変お喜びになりました。今はもう懐かしい思い出になりました。
 また,太原先生は長年,一石会の会長をお務めになりました。一石会とは鹿児島一中,一高女,鶴丸高校卒医師の会です。歴史は古く以前からあったのですが昭和59年8月で中断しておりました。平成15年3月,19年振りに再開された時から会長をされておられましたが,昨年11月13日一石会当日朝に入院され,下川優子幹事へ会長辞任のご意志を伝えられたようでした。当日は副会長でありました私が会長挨拶を代行しましたが,その後後任の会長に高山義則幹事長のご提案で不肖私が指名されお引き受けすることになりました。ここでも先生との深いえにしを感じることでした。
 太原春雄先生の長年に亘る多大な地域医療・保健活動へのご功績に深甚の敬意を表し,卓越した識見と信念を持って私ども会員を,そして鹿児島市医師会をご指導くださいましたことに感謝の誠を捧げ心からご冥福をお祈りいたします。太原春雄先生!本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。




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