[「太原春雄先生を偲ぶ追悼文」特集]
太原会長の思い出
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中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島 潤 |
会長の突然の死について特に思い出が深い。私が憧れの一中(鶴丸高校)に入学した年,まだすべてが珍しいばかりの頃の夏休みに全く知らない先輩の太原会長よりキャンプに行こうと誘われたことがある。喜んで同道した。
彼もお友達と一緒,私も弟を誘った。山川の松林で数日間,水泳や西瓜割りなどで楽しかった。松林の中は虫が多くて眠れなかったことを覚えている。それ以来別れて数十年が経ったある時,医師会でひょっこり太原会長にお目にかかった。あれ以来の邂逅であるのに彼は私を覚えていてあの時は楽しかったと言ってくれた。その後再びお付き合いが続いたのである。私が時折投稿する市医師会報について面白かった,「また続きを書いたら」と言ってくれたりしていた。
私は何分体が小さい。彼は立派な体格,堂々とした話しぶりで押しが利いていた。
医師会や刀圭会の時など落ち着いた分かりやすい言い方で議事が進行するものだった。
ところが今回突然彼の死を聞いて耳を疑った。私のように脳梗塞で不自由な体が生き残って頑丈な彼が先に逝くとは,世の中は儘ならない。つくづく無常を感じている。最後に彼が私にあてた私信の内容を抜粋して彼らしい母校を愛する心情を偲んでみたい。
「一中時代の思い出」太原春雄(昭和17年卒)
校 風
天下の一中という自覚と誇りを持つことを叩き込まれた。
「質実剛健」が校風で講堂の正面に大きな額が掲げられていた。華美を避け軟弱さが疎まれた。すべての教科について優れた教師に恵まれ,ことに数名の一中出身の教師がいて,熱心に伝統を重視する精神が叩き込まれた。
日常生活
入学と同時に制服制帽と黒の革靴。白の校内靴を新調することになっていた。年間を通じて下着は綿のシャツ一枚であった。太平洋戦争が始まった時から革靴は廃止され下駄ばきになった。黒の鼻緒に白糸で名前を書くことになっていた。校内は裸足だった。弁当箱はアルミ製で大きいのが特徴だった。
登校は原則徒歩で谷山から歩いて5年間無欠席無遅刻の生徒もいたという話もあった(伊地知市長)。
学校生活
全体の成績で1番は甲組級長,2番は乙組と決められていたし席次はすべて職員室の壁に張り出されていた。大分落第生もいたが悪びれる風はなく頭脳より努力が足りないという認識だった。北門の近くに寄宿舎があった。周囲の銀杏の秋の黄色の輝きが美しかったことが印象に残る。昼休みは全員校庭に出て何らかの運動をした。毎朝全校生徒が整列し朝礼台の校長と挨拶を交わした。その後,校庭一面に展開し上半身裸になって5分ぐらいの体操をした。これは極寒の冬も一年中行われ一中の裸体操といって有名だった。それに月曜日には全校生徒で「国体詩」の合吟もやった。磯の海岸には9人乗りのボート薩摩,大隅,日向の三隻がおりクラス対抗のレースもやった。夕なずむ錦江湾にボートを漕ぐと,オールの先に夜光虫が砕けて散った光景は忘れられない。
母校一中に対する思い入れは大したものだった。彼の人柄を偲ぶよすがとして抜粋しておく。
最期に,太原春雄会長のご冥福をお祈りいたします。

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