[「太原春雄先生を偲ぶ追悼文」特集]
太原春雄先生の思い出
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元鹿児島市医師会事務局長 土橋 一正 |
尾辻達意会長の退任に伴い昭和51年4月横小路喜代嗣副会長が会長に就任された。
太原春雄先生が理事として執行部入りされたのはこの年だった。以後理事を12年間,会長を6年間務められ,医師会を指導された。
はじめの先生の主担当は,公衆衛生と開業相談委員会であった(その後,保険,地域医療,医事紛争,経理,医師会病院等を担当された)。
太原先生の思い出は数多くあるが,本稿では,3つのことについて振りかえってみたい。
1.開業相談委員会
開業相談委員会というのは,新規開業,移転,増科,増床を計画されている先生方への指導相談を行う委員会で,全国ほとんどの医師会に設置されていたようである。当会では昭和39年11月に設置された。
委員会の目的は,「既存会員との紛争を未然に防止し,指導相談,話し合いによって円満解決を図る」というものであったが,開業等を計画されている当事者からは,「既得権の擁護,規制」と見なされた面があったことは否めない。
委員会での協議内容は,事務局が録音し,テープから反訳して会議録を作成,担当理事の決裁を受けていた。
開業相談委員会には,いわゆる200mルールというのがあった。新規開業者は同科の既設病医院から「略200m以上距離を置くこと」とされていたのである。
診療科目,ベッド数についても委員会の承認が必要とされ,この診療科は取り下げるようにとか,病床数を縮減するようにとかの指導相談が行われた。
中には非常に揉めるケースもあった。200m以上あるのか,ないのか。現地に出かけて,50m巻尺で実測することもあった。
開業相談委員会の協議結果は理事会で審議され,不承認,保留となった案件については担当理事が当事者に説明,指導相談を行うのであるが,最後まで調整がつかず,医師会に入会できないまま開業された例もあった。
このようなトラブルが全国にも多く発生していたと思われる。
公正取引委員会が,「医師会による開業規制は独占禁止法に違反の疑い」があるとして,昭和54年10月千葉市医師会,豊橋市医師会に,さらに55年2月和歌山市医師会,今治市医師会に立ち入り検査を実施したことが報じられた。
このような状況下にあって当会では,55年3月の代議員会で開業相談委員会の内規および準則を改正した。
200m規制を削除し「既存のものよりつとめて適当と考えられる距離を置くよう配慮すること」と改正した。標榜する診療科名については,「自己の専門を中心とする科にとどめること」とされた。
規制色を無くし,指導相談を行うことを旨とすることをより明確化した改正であった。
しかし公正取引委員会の指導はさらに続き,昭和56年8月,全国の医師会に対し「医師会の活動に関する独占禁止法上の指針」が発せられた。
医師会が,指導相談という名の下で自由開業を規制することは,独占禁止法に違反するとの明確な指針が示されたのである。
これを受けて全国ほとんどの医師会から開業相談委員会は廃止されていった。
当医師会でも太原理事を中心に,存続か廃止かの討議が繰り返され,同年10月開催された臨時代議員会で廃止が決定した。
昭和39年の開業相談委員会設立から廃止されるまでの17年間に開催された委員会は136回。
承認された件数は,新規開業213件,増床156件,増科42件,移転35件。
不承認は,新規開業18件,増科4件,増床2件。保留となり複数回協議されたものは131件であった。
保留案件のその後は,計画変更で承認されたもの,計画を断念されたもの,見切り発車されたものなど様々である。複数回協議されたケースを含めて,延べ審議件数は601件となっている。
不承認・保留件数の多さに担当理事のご苦労,心痛のほどが察せられるが,一方計画を断念,変更せざるを得なかった先生方の心中も思わずにいられない。
開業相談委員会は昭和56年に廃止されたが,その後もこれまで同様に執行部に担当理事を置き(太原理事が引き続き担当),開業相談指導は続けられることとなった。
2.全自動臨床検査システム
昭和58年2月,横小路会長が深夜帰宅途中,新屋敷町の自宅前の横断歩道で暴走車にはねられ急逝された。
後任会長には,副会長であった久留克己先生が就任された。その久留会長が昭和62年12月脳内出血により急逝された。
現職の会長が2代続いて急逝されるという異常事態に執行部は重い空気に包まれた。緊急理事会が招集され,久留会長の任期である3月末日までは沖野秀一郎副会長が会長代行に就かれることとなった。
昭和63年2月の役員選挙で後任会長に太原春雄先生が無投票当選をされ,4月1日第8代会長に就任された。
理事にも大幅な交代があり,新たに内宮禮一郎・田平禮章・林 茂文・鮫島信一・今村正人・中村雅弘先生の6人の理事が新任された。
臨床検査センターでは,昭和56年8月に全国に先駆けて緊急検査24時間体制を実施,昭和61年3月には夜間の集配体制を実施,名実ともに全国で初めての年中無休24時間緊急検査体制を確立した。
昭和62年頃から小園技師長(のち検査部長)を中心に検査の自動化を図る新検査システムの検討が始められた。
昭和62年11月,当検査センターが提携していた全国最大手の八王子のSRLラボを沖野副会長,太原・服部理事が視察された。
その後全国の検査システムの先進施設(高知医科大学中央検査部,慶応大学附属病院検査部,富士通小山・川崎工場,島根医科大学,鳥取医科大学,浜松医科大学,松波総合病院,旭川医療情報センター,札幌医科大学,藤田学園保健衛生大学病院,名古屋臨床検査センター,塩野義製薬大阪ラボ)を松岡・尾辻副会長,有馬・服部・海江田・中村・鮫島・東理事,小園検査部長,中田電算課長等が分担して訪問視察し,検討が重ねられた。
昭和63年4月には太原理事が会長に就任。
新検査システムについては,基本構想がまとまった段階でメーカーに内容を説明し,ヒアリングが行われた。
ベルトコンベア方式で検査の受付から報告までを完全自動化するという類例のない計画で,メーカーとの打ち合わせ,検討が何回も行われた。
その結果,メーカー2社から提示された見積額は,両社ともシステムだけで10億円前後という額で,執行部の予想をはるかに超えており,理事会では,今計画は一端中断せざるを得ないとの状況となった。
しかし小園検査部長はあきらめていなかった。秋田大学病院の検査室で,日立が開発した自動検査システムが稼働しているとの情報を執行部に説明した。これを聞かれた太原会長は自ら視察し,検討することを決断された。
平成2年5月19日,太原会長,有馬・海江田理事,小園検査部長,中田電算課長が秋田大学病院検査室を視察。当検査センターが考えていたシステムに近いものが動いていた。
大学病院という院内検査と鹿児島市内の全医療機関を対象とする検査センターでは,検体数において比較にならないほどの違いはあるものの,システムの基本は使えるというのが,視察者5人の一致した意見であった。
医師会本館の3階と別館3階の壁を撤去し,3階の床を連結,ワンフロアにして全自動検査システムのベルトコンベアラインを設置する。その改築費用,システムのソフトウエア・ハードウエアの開発費,機械・備品の購入費等々,総経費は10億円。これらの計画が理事会で承認された。
小園検査部長を中心に,各部門の若い有能な職員が日夜並々ならぬ努力を続け,日立とタイアップして世界で初めての画期的な検査システムを構築,平成3年8月から運用を開始した。
<全自動臨床検査システムの概要>
検査依頼書の照合,検査内容による仕分,受付作業の自動化。
検体の自動遠心分離,採血管の自動開栓,自動分注,自動分析装置へのベルトコンベアによる順次自動搬送。
分析結果のリアルタイム精度管理。1日4回自動FAX報告。ファクシミリによる音声応答システム。
以上のようなシステムにより,医師会立共同利用施設として全国一の迅速検査・精度管理・2時間以内の結果報告,低料金を実施し,全国に冠たる臨床検査センターへと発展していった。
太原会長の英断と小園検査部長の比類のない先見性,発想力,実行力,リーダーシップは,検査センターの歴史に刻まれている。
3.平成5年8.6水害
平成5年8月6日鹿児島地方に集中豪雨があった。一日の降雨量は鹿児島地方気象台観測史上例を見ない260mmを記録。中でも17時から19時の2時間にかけては100mmを超す凄まじい豪雨だった。
甲突川周辺ならびに現鹿児島中央駅周辺から天文館地区一帯は1m以上の浸水。小山田町の国道3号線は陥没,武之橋,新上橋が流出した。
竜ヶ水地区では大規模土石流により花倉病院の入院患者・避難住民24人が生き埋めとなり,15人が死亡。他地区での被害者を合わせて死亡者48人となった。
当医師会館は40〜50cm冠水。機械室や電話配電盤,ファックス設備,多数の書類が泥水に浸かり,販売用のカルテ,明細書類も全てダメになった。
別館の夜間急病センターも同様で,修復のため1週間の休診を余儀なくされた。臨床検査センターでは集配車両19台が冠水,無線24局が使用不能となった。
この8月6日は城山観光ホテルで理事会が行われることとなっており,私は医師会病院からタクシーで城山に向かったが,柿本寺の交差点に差しかかる頃から道路に溢れていた水の量が急激に増えてきた。
タクシーを降りて,膝まで水に浸かりながら近くのビルの2階のレストランに駆け込んだ。2階の窓から下を眺めていたら,みるみる国道が川のようになり,濁流となった。水位は1m近くあるようだった。立ち往生していたクルマは全て水没し,大小おびただしい物が流れていた。
レストランのテレビで,豪雨と満潮が重なり甲突川,新川,稲荷川が決壊したとのニュースがずっと放映されていた。
周辺はほとんど停電しているようだったが,このビルはずっと明かりがついていた。
深夜過ぎ頃から水位が下がってきたので,医師会館に引き返した。当直者から懐中電灯を借りて,中央事務室に入ると,かなりの泥水が残っていた。応接テーブルや椅子が定位置から大きく流され,泥の中に浸かっている状態だった。
会館は停電していたが,別館2階の緊急検査室は灯りがともり,職員が仕事をしていた。無停電装置(自家発電装置)が稼働したのだ。姶良方面から通勤している職員はJRが不通となり,帰宅できず残っている者もいた。
私は2階の会議室で仮眠をとろうとしたが,衣服が濡れていたせいか8月というのにとても寒くて眠れなかった。
翌7日・8日は,福岡市で第25回九州地区医師会病院・臨床検査センター連絡協議会が開催され,当医師会からも執行部全員が参加する予定であったが,参加不可能となった。
しかし,この会の次年度の担当が当会のため,太原会長は何としても出席したいと言われ,JRは不通であったので公用車で行くこととした。
随行者は私(当時医師会病院庶務課長)と東 耕治係長(現事務局長),南 正一主任(現経理課長)の3人であった。
公用車は,前日太原会長を城山に送る途中で断念し,会長を紫原の自宅にお送りした後,医師会館には戻ることができず,医師会病院に一晩駐車してあった。そのため幸運にも冠水を免れたのである。
伊敷小山田方面の国道3号線は不通のため,谷山から伊作街道に出て吹上,串木野,川内へと向かった。南主任が運転をし,東係長が自動車電話で連絡を取りながら走った。
途中クルマの中で,太原会長が用意してくださったおにぎりを食べた。明太子の入ったおにぎりで,たいへん美味しかった。
川内駅に着いたので聞いてみると,間もなく博多行きが出るとのこと。公用車を駅の広場にとめて運よく乗車することができ,5時過ぎに博多到着。施設長会・懇親会の開会に何とか間に合った。太原会長は,次期担当医師会長の挨拶を無事果たされた。
翌8日も協議会(特別講演)が行われたのであるが,私たちは朝早く同じルートで鹿児島に急ぎ帰ったのであった。
集中豪雨による会員の被害状況調査が行われた。
冠水被害施設は82軒に上った。厨房,空調設備,エレベーター,X線装置,諸々の医療機器,事務機器等が泥水に浸かり,各施設からの被害見積額の合計は2億9千万円を超えた。
太原会長は,被災会員にお見舞いの手紙と見舞金5万円を届けるとともに,医師会として何とか復旧を支援したいとして,被災会員の希望者に500万円の担保なし,無利子の特別融資を行うことを決断され,一日でも早い方がいいという思いから持ち回り理事会で即決,実施されたのだった。
融資を受けられた会員は51人,総額2億4千5百万円になった。
この融資資金は,臨床検査センターの設備積立預金を担保として,当会が県医師信用組合から特別に低金利で借り入れを行うことにより賄われたのであった。
終わりに
太原会長は大柄な方で,職員にはもとより理事者に対しても歯に衣を着せない直截な物の言い方をされるので,威圧感があったが,一方悠揚迫らぬ態度で周りに眼を遣っておられるところなどは,まさに将に将たる人の威厳・風格があった。
酒も強く,中でも日本酒がお好きだった。タバコはピースだった。
当時は煙害という言葉はなかった。会長をはじめ理事者には愛煙家が多く,理事会のときなどは,タバコの煙がもうもうと立ち込める中で,2時間3時間と会議が続くのだった。
紫原病院に文書の決裁をいただきに伺うと,患者さんが一段落したところで,入るように声がかかる。
診察室に入ると,先生は院長机に置いてある紫紺のピース缶から1本抜き,火をつけて,旨そうに吸われる。それからおもむろに文書に目を通され,大きな印鑑で決裁をされるのであった。
上に掲げた写真は,太原会長が退任されるにあたり,百合幸で行われた送別会のときの写真です。
太原先生の姿容,風格がよく出ている写真だと思います。21年前の写真ですから周りの先生方も全員お若いです。
会長を退任された後も,お会いするたびに,「おう,元気か。写真はやっているか,釣りの方は最近どうか」と声をかけてくださった。
厳しい会長でしたが,悠然とピースをくゆらせ,一服されているときの太原会長の柔和なお顔が思い出されます。
奥様も先日他界なさいました。心よりご冥福をお祈りいたします。

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