[「太原春雄先生を偲ぶ追悼文」特集]
故 太原春雄先生を偲んで
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鹿児島市医師会 会長 猪鹿倉忠彦 |
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ご夫婦そろってご出席された
県民表彰式(平成25年11月1日)
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本年2月9日に,大変残念にも太原春雄顧問の訃報の知らせを受けました。
昨年一年も,顧問としてのお立場で機会あるごとにご指導をいただきましたが,新会館建設中にてホテル・レクストン鹿児島での年始会,2月には退任役員との懇談会,6月の役員歓送迎会,7月初めの医師会病院開設30周年記念式典,7月末の新医師会館の上棟式,大変暑い夏を挟み,11月には日本医師会最高優功賞の授賞式に上京されるなど,お元気にご活躍なされていらっしゃいました。しかし,昨年の晩秋以降,体調を崩され療養されていらっしゃるとお伺いしておりましたが,先生が大変楽しみにされていた新医師会館の落成記念式典へのご出席はかないませんでしたが,新医師会館での年始会のご案内をさしあげた頃には,体調も戻り安定なさっているとお聞きし,いささか安堵しておりました。しかし,その矢先だっただけに,信じがたい知らせでありました。
私が理事に就任したのは平成16年4月でしたが,当時から顧問として,あるいは地域医療の先輩として,機会あるごとにご指導いただきました。時には檄を飛ばされ,時には温かく励まされ,しかし,常に「会員のためにどうあるべきか,どうあるのがベストか」「迷ったら,“会員のため”を考えろ」と訓示をいただきました。そして,医師会を司るには,「周囲への配慮を忘れるなよ」と必ず最後には教示の念を押されました。これらのお言葉は,今でも私の中でこだましております。
医師会は厳しい医療情勢の下,また,少子高齢化社会の下,ますます厳しくなります。しかし,先生の訓示,教示を踏襲し,会員のための医師会そして地域医療をしっかりと支えてまいる所存です。
太原先生,医師会を支え地域医療が安泰となるべく,温かく,お見守りください。
謹んで追慕と哀悼の意を表し,告別式で捧げました弔辞を再掲させていただきたいと存じます。
しかしながら,先月,6月2日に,ご令室であられた太原昭子様が,先生を慕うかのように,88歳で急逝なされました。太原家におかれましては,ご両親を共に亡くされた深い悲しみはいかばかりかと拝察いたします。
あらためまして,ここに太原春雄先生,昭子様ご夫婦のご冥福を衷心よりお祈り申し上げる次第です。
弔 辞
故 太原春雄先生のご霊前に,鹿児島市医師会を代表いたしまして,謹んでお別れの言葉を申し上げます。
昨日,先生の訃報に接し,会員一同深い悲しみに包まれているところでございます。こうして温容溢れるご遺影の前に近づきますと,鹿児島市医師会の長い歴史の中で偉大なるご功績を残され,今でも我々会員の亀鑑であられた先生のありし日の面影が彷彿として蘇り,あの威風堂々としたお姿をもう拝見できないと思いますと,只々寂しさが募り,深い哀惜の念に堪えません。
先生におかれましては,昨年11月に急遽体調を崩され鹿児島市医師会病院にご入院,一時は快復され正月はご自宅でお過ごしでしたが,今月初旬に再入院となり,ご家族皆様の回復への祈りもむなしく,遂に平成27年2月9日午後8時27分,93歳のご生涯を閉じられました。誠に痛恨の極みで,ご遺族の皆様のお嘆きは,いかばかりかとお察し申し上げ,衷心より哀悼の意を表する次第でございます。
先生は,昭和24年3月に九州大学医学部をご卒業になり,翌年には国立療養所田川新生病院に厚生技官として着任,以後福岡県各地保健所の結核予防法審査委員等を昭和32年の退官までお務めになられました。
その間,昭和30年には,論文「肺結核患者の肝機能に関する統計的研究」で医学博士の学位を授与されておられます。
昭和32年には鹿児島へ戻られ,現在の鹿児島赤十字病院の前身である錦江赤十字病院に勤務,昭和37年には副院長に就任されるとともに日赤鹿児島診療所長もお務めになられました。
その後,鹿児島県赤十字血液センター所長等もお務めになり,昭和40年には現在の紫原の地に,紫原病院を開業。爾来,平成13年にご子息に引き継がれるまでの実に40年近くの永きにわたり,ひたすら地域住民の医療・保健の向上のために尽力され,昼夜の別なく献身的に多くの患者さんの診療に従事してこられました。
先生は患者さんの話によく耳を傾けられ,親身になって大変に優しい語り口で話されるなど,その誠実なお人柄は会員並びに地域の方々にとりましても誠にかけがえのない尊い存在で等しく尊敬と信頼を集めておられたところでございます。ご子息に診療を引き継がれてからも先生の診察を望まれる地域の方々は後を絶たず,懇切丁寧に診察にあたられていたとお聞きしております。
そのようなお忙しいなか,先生は昭和51年4月から昭和63年3月まで当会理事として,同年4月から平成6年3月までの6年間は第8代会長として,通算18年の永きに亘り医師会業務に多大なるご尽力をいただきました。さらに,社会保険診療報酬支払基金の審査委員長として保険制度の発展向上に大きく貢献されるとともに,鹿児島県医師会の代議員会議長等の要職も歴任され,最近までは鹿児島市の結核予防に関する委員会委員もお務めいただいておりました。
先生の当会役員就任中には,休日夜間急病センターや医師会病院が開設され,なかでも当会臨床検査センターが全国に先駆けて導入した全自動臨床検査システムの導入については,国内はもとより海外からも見学者が訪れるほどに注目を受けました。
また,会長就任後の翌年には元号が「平成」と改められるとともに,社会・医療情勢が予想を超えて変動し始めた時代でございました。
そのような世相を表すかのように,当会の記録誌を読みおこしますと,先生の任期中には多くの難題が医師会に押し寄せていたことが記されております。
地域社会での救急医療体制の構築,勤務医急増等による支部再編成の問題,情報化社会に伴う通信整備等どれも喫緊の対応を迫られていたことが垣間見えます。
しかしながら,当時の問題のどれを見ましても,現在我々が会務遂行にあたる根幹の部分を支える事柄が,確かな方向性に導かれ確実に前進してきたことが計り知れます。太原先生が中心にどっしりと構えられ,歴代執行部の先生方が幾度となく検討を重ねてこられた賜物と存じ上げる次第で,これから先脈々と続く当会の歴史のなかで,「会員のためにどうあるべきか。どうあるのがベストか」という先生の信念を大切に受け継いで参りたいと思う所存でございます。
一方,先生は常に冷静な判断力をお持ちのお方でしたが,地域住民や会員のためとなれば,一気呵成に物事をやり遂げられる実行力をもお持ちでございました。
平成5年に鹿児島市を襲った8・6水害で会員施設が甚大な被害を受けた際には,会長専決で見舞金を出され,災害復旧の特別融資制度を即座に設立されました。また,会長職退任後の平成7年の阪神・淡路大震災の際には,集まった義援金とともに段ボール箱一杯の菜の花をご自分の足で被災された尼崎市医師会に届けておられます。
先生の残されたご功績はまだまだ言い尽くせませんが,このような多大なご貢献は高く評価され,昭和59年に「厚生大臣表彰」,平成8年に「勲五等瑞宝章」,平成25年には「鹿児島県民表彰」を,昨年には「日本医師会最高優功賞」を受賞しておられます。
一方で,このようにお忙しい診療と各種業務の傍ら,先生は多くのご趣味をお持ちであられました。お若い頃にはゴルフや釣りを楽しまれていたこと,ご子息に診療所を譲られてからは,何よりも奥様とのドライブや旅行を楽しみにされていたこと等,当会の機関誌である鹿児島市医報にもたくさんの投稿をいただいております。
奥様と手を取り合いながら海外の様々な国へ旅行されたことや,米寿をお迎えになられた際には,ご家族の心配をよそに,先生が運転されて計850キロのドライブを敢行されたこと等,仲睦まじいご夫婦の姿が目に浮かぶようでございます。
今こうして先生のご遺影に対しておりますが,未だ俄かには信じられず,ただただ茫然といたしている次第でございます。幽明境を異にすると申しますが,再び先生の温顔に接することができなくなり,痛恨これにすぎるものはなく,誠に残念でなりません。
太原家におかれましては,奥様を中心に先生のご薫陶を受けられたご子息,ご令嬢に恵まれておられ,すでに診療所もご長男の太原博史先生が立派に引き継いでおられます。私どももできる限りのお力添えをさせていただきたいと思います。
今ここに先生をお送りするにあたり,先生の多大なる地域医療・保健活動等へのご功績に深甚の敬意を表し,また,鹿児島市医師会に対し永年に亘りご指導賜りましたことに感謝申し上げ,心からご冥福をお祈りいたしましてお別れの言葉といたします。
太原先生,どうぞ安らかにお眠りください。
平成27年2月11日
鹿児島市医師会 会長 猪鹿倉忠彦

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