[「太原春雄先生を偲ぶ追悼文」特集]

太原春雄先生を偲んで


中央区・中央支部
(花牟礼耳鼻咽喉科) 浅野 庄三

 太原春雄先生に初めてお会いしたのは昭和57年医師会理事との面接の席であった。何か質問は無いかと言われ,溶血等で検査できなかった項目の検査料はどうすればよいかと,尋ねたところ,検査料は返すべきだと保険担当理事だった太原先生のお答えであったが,沖野副会長が再提出をお願いすればよいと助け舟を出してくださった。一寸怖い第一印象であった。先生と親しくお話するようになったのは平成3年11月奈良ホテルでの夕食時からであった。日本医師会主催の全国学校保健・学校医大会が毎年11月に開催されていて,当時庶務担当理事をされていた中央支部の有馬桂先生から,耳鼻咽喉科部会もあるのに,誰も参加していない,耳鼻科から出てくれないかと要請を受けた。当時私は鹿児島県耳鼻咽喉科地方部会で学校保健を担当していて,岳父も健在で留守番も頼めたので,出席することにした。鹿児島市医師会より参加の太原会長,有馬理事等とホテルで夕食時,下戸の私はワインを勧められ真っ赤な顔になり,太原会長に面白がられた。
 平成4年4月,理事に選出され,太原会長の下で,医師会の仕事に就いた。初めての理事会で,太原会長は判断に迷った時は会員のためになるのはどちらかという事を第一に考えるべきだと訓示された。以来私はこの言葉を医師会活動や物事の政治的見方の判断基準としている。この判断基準は国会議員はじめ地方議会議員等にとっても普遍的法則ではないかと思っている。資料は事務官僚がすべて揃えてくれる。政治家は何時も一般国民,また市民のためになる方をと決めていけばよい。ノンポリだった私に,政治家の活動や記事を見る評価基準を教えていただいた。先生は平成6年の県医師会長選に立候補されたが,当時小川幸男先生は医師会のリーダーとしての資質は鮫島耕一郎先生と太原春雄先生だと高く評価されていた。
 先生はまた社保審査副委員長,委員長を長く務められていて,いろいろご指導いただいた。耳鼻科では,当時副鼻腔炎のネブライザー薬液に注射用パニマイシンを使用していたが,保険で認められなくなった。ほかに薬剤が無いと申し上げたところ,適応症には合っても用法違反であり,学会が悪いと指摘された。後にベストロン耳科用液やホスミシン等が出てきた。
 楽しい思い出は,一休会と称して会長を中心に,理事,理事OB有志で連休を利用した夫人同伴の2泊3日程度の旅行であった。先生はいつも奥様をいたわられ,夫婦愛の見本のような方であった。初めての参加は韓国旅行であったが,家内が車酔いをした時など大丈夫かとお声を掛けていただいた。尾瀬,上高地,北海道の雪まつり等想い出いっぱいである。夕食後のカラオケでは尾辻達志先生は芸達者でなんでもされ,林 茂文先生,土持昭男先生は歌が上手,海江田 健先生はいつも堂々と歌われ,有馬 桂夫人はシャンソンろくでなしを,松岡克己先生は十九の春,太原先生の十八番は湖畔の宿で,最後に皆で知床旅情を歌って散会であった。音痴の私はいつもそっとしていたが,無理やり歌わされ,北上夜曲を歌った。先生は酒がお好きでいつも日本酒をたしなまれていた。年始会,会員受賞祝賀会等の宴席では,先生の周りはいつも人がいっぱいで,いつご挨拶に行ったものかと思ったものである。
 多くの先輩理事も亡くなられ,私の人生も終章に来たが,生涯の恩師と言えるのは,耳鼻咽喉科医として,飯が食べていける様にご指導いただいた熊大耳鼻咽喉科 故野坂保次名誉教授と,医師会活動等政治的な判断基準等をお教えいただいた故太原春雄先生であると思っている。2人のよき指導者に出会えて感謝している。先生のご冥福をお祈りいたします。合掌




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