=== 随筆・その他 ===

幼 い こ ろ の 甲 突 川

「天保山から新上橋まで」

中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤
 私は幼いころから甲突川の周辺で育っていたので思い入れが強い。何回か鹿児島市医報にも投稿しているが,これをまとめて復習してみたいと思う。
 だいたい甲突川は昔,神月川と言った。昔は新上橋の付近で左に折れ城山の下を平之町に抜け,照國神社から西本願寺を通り俊寛堀から錦江湾に流れていたと言われる。島津藩が発展するにつれ城下町が狭くなったので江戸中期に川筋を現在の方向に切り替えた。城下町(右岸)の方には頑丈な石垣を造り,洪水があっても城下に水が溢れぬように考えて,左岸はそのままにしておいた。しかしそのため毎年の洪水のおかげで左岸の原良,西田,田上方面に水が溢れ,肥沃な田畑が育つことになった。
写真1 高射砲陣地の跡

写真2 クロマツの滑り台


写真3 五位サギ

写真4 魚をくわえるカワセミ

 まず甲突川の川口である天保山は海水浴場として賑わっていた。桜島を正面に見て白砂青松,白い帆掛け船が浮く風光明媚な海辺だった。左岸に薩英戦争の時の砲台跡があり,その隣に二次大戦の時の高射砲陣地の頑丈な防空壕が残っている(写真1)。昭和20年,B29の来襲の時,ここの陣地から応戦,砲撃したが1万メートルの高空を飛ぶ敵機まで届かずにB29は悠々と白い飛行機雲を残して過ぎ去っていったのが悔しかった。川の対岸には今の水道局下水処理場から錦江町あたりの広い範囲が塵捨て場になっており全市内から大小の塵が大八車で運ばれてきていた。積もった塵が自然発火し,燃え火からの煙が立ち上り夜は鬼火がちらちらと光って気持ちが悪いものだった。
 今の厚生連病院やマンション,ホテルが並ぶ天保山の松並木が錦江湾の水際だった。対岸までの約100mぐらいの距離を若い青年たちが泳いで渡るのを自慢にしたり,時には喧嘩の場でもあった。平成初期に,松くい虫が猛威を振るった時があったがここの松並木は厳然と残っているのは頼もしい。
 当時はその松の木に筵の小屋を立て掛けて住んでいる人たちが数十人はいた。「カンジンゴヤ(乞食小屋)」と言っていた。大正末期は,貧しい不景気な時代だった,今のヒッピー族や痴ほう,認知症の人達だっただろう。髪は茫々,色は黒く,白い歯を見せてニタニタ笑う姿は怖くて子どもたちはそっと逃げ出すものだった。「ガネオミツ」という中年の名物おばさんがいたのを覚えている。そのおばさんの素振りは,なかなか人気を呼んでいた。中には目の見えない,鼻が欠けた梅毒末期とかレプラ(らい病)の末期の患者も何人かいたが警官に見つかると所轄署に連れていかれていた。保健所なんかはないし,当時の世相はそんなものだった。
 今の天保山橋の100mぐらい上流の川岸に大きなクロマツの老松が差し掛かり,台風のため人の高さの位置で大きく海岸側に折れ曲がって川面に長く枝を伸ばして奇異な形をしていた。我々は滑り台と言っていた。その枝の先には川船が何艘か繋がれていた(写真2)。
 天保山から川の右岸に沿って歩くと奥深い孟宗竹の密林があり狭くて薄暗い場所で,この辺りにガランとした幽霊屋敷があって昼でも怖い場所だった。
 ここで暫く話を変えて甲突川をねぐらに暮らしている小鳥たちの様子を見てみよう。
 甲突川の川口には季節によってシギ,ハクチョウなどが群れをなして休んでいた。また川の向かい側は広い塵捨て場だったのでカラスの群れが集まっていてこの大群が夕暮れになると三三五五連れ立って西の方,武岡の山手に帰っていくものだった。それを見て我々子ども達も「カラスが鳴くから,帰ろう」と家路を急いでいた。
 ある寒い日にカモメの大群が川面をギッシリ埋め尽くすように並んでマンションの陰に集まり,北風を避けて,まるでお猿の集団の“押しくら饅頭”のように固まっているのを見掛けたが壮大な光景だった。
 またある時,高い空を円く飛びながらピーヒョロロと特有な声で鳴いていた鳶が急激にダイビングし川面に下り,獲物を掴んで上空へ飛び上がった。ところが獲物があまりに大きかったのか掴み切れずに取り落として獲物はひらひらと川面に落ち,鳶はそのまま飛び去った。こんなドジな奴もいるのかと哀れに思ったことがある。
 または今の南洲橋の脇に大きな柳の大木があった。一羽の五位サギが,いかにも俺は,醍醐天皇から位をいただいたのだぞ,宮中参内ができるのだぞと,威張ってじっと水面を見下ろしていた。よく日本画に見られる気高い構図である(写真3)。その近くには川のルビーと言われる「カワセミ」が黙然と佇んでいた杭の上から矢のようにダイビングして水中に潜りピチピチと跳ねる小魚を口にくわえ杭に戻って飲み込む姿も優雅だった(写真4)。
夏になるとその対岸の樟の大木の洞にはフクロウが眼を剥いて夜は不気味な声でホーツ,ホーツと鳴いていた。田中一村画伯のアカショウビンも赤い立派な嘴でピーキョロキョロと特有の鳴き声を立てて飛んでいた。高見橋の手前の広い中州にはサギ,シギ,セキレイなど小鳥達が多数集まって水浴びをやっていたが子どもの群れを見るようで可愛ゆく美しいものだった。MBC南日本放送のあたりには冬は鴨が群れていた。
夜になるとギャーッ,ギャーッと不気味な声で飛ぶ鳥がいた。カワウだと思ったが年寄り達は「あれは,ガラッパドンが子どもを誘いにくる声じゃ,引き込まれるぞ」と子どもたちを脅かしていた。子どもが引き込まれて一人は死なないと梅雨は晴れないというものだった。
 しかしこんなにたくさん鳴いていた鳥たちも,ゲロゲロ騒いでいた多くの蛙たちも近年ほとんどその姿も鳴き声も聞かなくなった。淋しい限りだ。
図1 急勾配だった武之橋と船着き場

写真5 奥は昔の高見橋

写真6 砂利の採取

図2 避難用川船

写真7 左側(矢印):昔の階段,右側:高見橋

 話を川に戻そう。武之橋の右岸に昔,樋渡放牧場があり牛が何頭かのんびり暮らしていた。この武之橋は非常に傾斜が急で荷馬車が重荷を積んで坂を上るのに随分難儀をしていた。御者は馬を鞭で叩く,馬も汗びっしょりで踏ん張っていた。やっと坂を上りきった時は馬も,見ていた我々人間もほっとしたものだ(図1)。上流にあった西田橋も似たような坂だったがこの橋の坂も町が発展するにつれて次第に周りの道路が埋め立てられるようになり現在では傾斜が大分楽になっている。
 武之橋の根元に10畳ぐらいの石畳があって船着き場だった(図1)。川を溯ってきた帆掛け船が数隻並んで着岸し桜島,大隅方面から持ってきた農産物,蜜柑,大根または炭俵,薪などを船から降ろし,牛の背で岸の上の広場まで引き揚げてそこで待っていた数台の馬車の背に積み替えて山川,加世田,知覧,枕崎方面に分かれて谷山街道へ牽かれていくものだった。
 武之橋の脇には並行して鉄橋が設けられていて甲突川の水を電車(散水車)に汲み上げて市内の主要道路に水を撒いて市内の砂ぼこりを静めていた。
 武之橋の上流,今の鹿児島予備校から南日本放送のあたりは昔,広い白砂の松林で枝ぶりの良い松が多く生えている豪邸があった。街の分限者の屋敷と聞いていたが,子どもたちは遠慮なくその庭先を横切って近回りし遊び場に急ぐのだった。
 高麗橋を渡って少し上ると南洲橋の先の交通局のバス駐車場の角の根元に共研公園方面から流れる川の出口がある。このあたりも昔,船着き場で小さな桟橋が架かっていた。
 当時は川の右岸は草原で馬がのんびり草を食べていた。春は雲雀がピイチク鳴いていた(写真5)。ここの河原に数百匹の琉球ネズミがいて我々が足を踏み入れるとそれこそ蜘蛛の子を散らすようにパっと散り,あっという間に瞬間的に周囲の石崖の隙間に隠れてしまうものだった。そのスバシッコサはいわゆる「ガンギネズン(岸際鼠)」そのものだった。本当に瞬間的な速さだったのを今でも忘れない。
 その頃この辺りの河原は塩気のない,質の良い砂利が取れるのでスコップを付けた2〜3mの長い竿(サリン)で川を掘り起こし砂利を掘り上げて建築材料や盆栽の敷石に重宝がられていた。その掘った穴を放置しておくと子どもが間違ってその穴に落ち込んで溺れ死ぬことが何回かあった(写真6)。
 西田橋や五大石橋の右岸にはいずれの橋にも小屋が建っていて舟がうつぶせに保管してあった。これは天保年間甲突川の大改修工事の時に川筋の人々が洪水に曝される危険を考えて住民の避難用として設置されたものだった(図2)。私も小学校の時甲突川が溢れて西田本通りの道路全体が水に浸かり,学校から家に帰れないので周りの住民達と消防団の若い人たちに守られてこの船で家まで送り届けてもらったことがある。
 この小屋のすぐ近くの小川に阿蘇谷どん(殿)の橋があって一間足らずの小さな石橋だったが,島津藩の依頼で甲突川の五大石橋を建造した肥後の石工三五郎の作だと聞いていた。小さいながらもきちんと欄干もついて苔むした威厳のある橋だった。私は学校帰りによくこの欄干で一休みしていたので印象が深い。
この辺りは川に足を入れると水量は豊富で川の砂がさらさら流れて足の底をくすぐり足が沈むようで気持ちの良いものだった。川には鮒や鯉,ハエ,手長エビ(ダッマ),メダカなどざらに泳いでいた。季節によっては糸屑みたいな透明なウナギの子どもの集団(シラスウナギ)がぞろぞろと並んで川を上ってゆくものだった。石を並べてその集団を堰き止め,手拭いですくって遊んでいた。遊び疲れたり,喉が渇くと今の東急インの位置に,大きな製氷工場があったのでそこに駆け込んでは氷のかけらを貰って喜んで飲んでいた。その頃は親ウナギも随分見掛けたものだった。近所のおじさんたちは,時には川岸の石垣の穴場を細い竿で突いてウナギを引き出していた。時にはアセチレンガスの明かりで夜焚き(夜間の漁)をする人たちもいたものだ。このアセチレンカーバイトの特有な匂いは照國神社の六月灯を思い出して懐かしかった。同時にこの辺りは蛍がよく飛んでいた。
 しかし平成5年の8・6水害の後,川底を徹底的に2mも掘り下げ,川の両岸をより厳重に堤防を築きウナギの穴場も密閉してしまったので甲突川の自然がごっそり失われ,その後ウナギたちはどこへ行ったのだろうか?小魚の餌場となっていた両岸の草むらもないし,自然の甲突川は全く失われてしまった。残念な話だ。
 高見橋は大正の末はまだ細い木の橋で私たちが歩くと板の隙間から川の流れが見えていたものだ。それが鉄筋に改修工事が始まったのは私が小学校4年の頃だった。今も残っているが道路から川岸を下りる階段があって(写真7),そこを下りたところから大きな土嚢で甲突川を半分仕切ってあと半分は板を架け,仕切られたところをクワで掘っていた。その土砂をもっこやたんかでぞろぞろ並んで人海戦術で運び出すのだった。まるで中国の苦力(くーりー)の仕事のようだった。それでも我々は学校の往復にその土嚢を渡っていたが,それまでは西田橋または高麗橋を大回りして街や学校に通っていたのである。まだ学校にも通わぬ小さな体でよく歩いたものだ。橋が今のように大規模になったのは戦後の事である。

曽我どんの傘焼き
毎年6月になると伝統行事である「曽我どんの傘焼き」があり,そのために若い二才(にせ)達が各家庭に傘を集めにやってきた。草牟田から武之橋の間の4〜5箇所。学舎ごとに,甲突川の真ん中に直径2〜3mの土塁を築き傘をいっぱい集めて置く。夜になると褌をきりりと締め上げた若者たちが土塁の周りの川を飛沫を蹴立ててグルグル廻りながら元気よく曽我どん兄弟の歌「鎌倉時代から400年も続く父の仇の歌である」を大声で歌いながら傘に火をつける。すると物凄い勢いで大量の傘が燃え出し豪壮な火の手が上がる。傘の竹がはじけてドンドン,パチパチ物凄い音がして火炎が一層舞い上がる。周りの川岸から見ている大勢の人たちは赤い炎に照らされてなかなか勇ましい恰好だった。残念ながら近年和傘を使う人がいなくなり傘が集まらなくて難儀している。京都,岐阜方面からの仕送りで何とか続けているらしい。寂しい話だ。洋傘では話にならない。

甲突川のクルージング
写真8 甲突橋のあたりでクルージング

図3 新上橋の石岸・市場

甲突川は8・6水害の後大改修で川底を深く掘った。これで船が通れる,と喜んだものだ。私は船による通学・通勤ができると思い込んでいた。その頃,甲突川クルージングを思い立った人がいる。ロンドンのテムズ川。パリのセーヌ川みたいにあんなに豪華でなくてもよい。桜の時期だけでも,市の観光課で力を入れてくれたら有意義だと思う。同時に錦江湾のクルージングを始めている人もいる(写真8)。
新上橋の日豊線の鉄橋を過ぎた右岸に石段のついた本式の荷揚げ場があり野菜などを水揚げされて(図3),橋を右に曲がったあたりが広い市場になっており大いに賑わうものだった。原良川の脇に薬師堂があり,付近の町名の由来になっているが現在は上流に移っている。市場の隣に碁盤目のように整理されて一ッ葉とか貝塚伊吹など綺麗な垣根に囲まれた集合住宅があった。島津どんの住宅といって県庁の役人達が住むと聞くものだった。
こうして一通り見てみると私が学校にも行かぬ子どもの頃から大分あっちこっち歩き回っていたのだなあと今更ながら驚いている。どうりで大人になってから世界中を歩き回る癖がついたのだろう。
この文の挿絵は私の一中(今の鶴丸)の先輩白浜 正先生の(鹿児島「回り灯籠」)によるものであり先生のスケッチ写生風景をよく見かけたものであった。ここに記して深く感謝する。思い出すまま書いてみた天保山から新上橋まで草牟田,西田,荒田の緑の大地を縫って流れていた懐かしい甲突川の思い出だ。
私もいつの間にか90歳を超えてきた。鹿児島の街があまりにも乱雑に蚕食され過ぎてジャングルビルになっているのを見ると,昔は緑の自然いっぱいの静かな街だったとつくづく思う。

参考資料
1)甲突川原の小鳥たち 昭和56年8月号37頁
2)甲突川原の小鳥たち(U) 昭和58年8月号49頁
3)甲突川有情 平成3年1月号48頁
4)鹿児島「回り灯籠」 白浜 正 先生
5)甲突川の思い出(1)−武之橋の周囲から− 平成16年8月号60頁
6)甲突川の思い出(2)−天保山の周辺から(1)− 平成16年9月号34頁
7)甲突川の思い出(3)−天保山の周辺から(2)− 平成16年10月号39頁
8)甲突川の思い出(4)−与次郎ケ浜− 平成16年11月号35頁
9)甲突川の思い出(5)−高見橋の周辺− 平成17年2月号41頁
10)甲突川の思い出(6)−玉江橋マラソン− 平成17年3月号39頁
11)甲突川の思い出(7) 平成17年5月号19頁

※写真5・6・8:南日本新聞社協力





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