=== 随筆・その他 ===

大 学 へ の 道


西区・武岡支部
西橋 弘成
1.大学へ行け
 夕方会社から帰ってきた父は,私の顔を見ると,
 「お前は大学へ行くのだ」と,毎日のように言った。
 父は熊本県人吉町の西隣の羽田(はっだ)村の生まれで,高等科2年を修了すると,福岡県大牟田市にある三池工業学校へ進学した。この学校は学業に厳しく,学期末試験で赤点(60点未満か?)を取ると,即退学になったそうだ。父が入学した応用化学科定員20人は,5年間の勉学の後卒業できたのは10人だったそうだ。

2.父の就職
 特待生として学生生活を送った父は,これまで数年来会社からの採用希望があった台湾の台湾製糖会社へ,学校長の頼みを受けて就職した。台湾の都市三つを転勤し,最後の台北市に転勤して,そこで人吉町の高家の娘を娶った。
 父は10年間台湾で働いた。姉と私は台北市で生まれた。

3.父の転職と再就職
 父は10年後内地へ帰り,独立することを考えた。姉が5歳,私が3歳の時熊本市へ移った。姉は社宅の庭にマンゴーの木が一本あり,実がなったこと等覚えているが,私は台湾のことは何も知らない。社宅の庭で母に抱かれ,台湾神社の鳥居の前で抱かれて撮ってある写真2枚で台湾のことを偲ぶだけだ。
 父は熊本市で石けん作りをしたがうまくいかず,乾電池の製造・販売に変えてみたが,個人の事業者への原料の割当は少なく,2年後に工業は行き詰ったのだそうだ。
 福岡県久留米市の南隣の荒木村に,台湾製糖の分工場があったので,そこへ再就職した。私が4歳になったばかりの頃だ。そして父の次の言葉が始まった。
 「お前は大学へ行くのだ」
 昭和12年4月,私は荒木尋常高等小学校へ入学,学年3クラスの男子組(1年1組)だった。

4.中学進学への想い
 2カ月ぐらい経つと古賀君という同級生と仲よしになった。古賀君のお父さんは久留米市にある会社の社員で,私が住む社宅暮らしではなく,社宅から鹿児島本線の踏み切りを渡ってすぐの道を荒木駅の方(北の方)へ暫く歩いた田んぼに囲まれた自宅住まいだった。
 2人は,土・日を除いて,放課後ほとんど2人で過ごした。ある日私の社宅の前の広場で立ち話をしていて,小学校卒業後どうするか,という話になった。
 「中学校へ進学しよう。それも久留米市の明善中学校へ」ということで話が一致した。明善中学は小倉中学と同じように地方校の進学校として有名であった。荒木小は農家の子どもが多く,上級学校へ進学する者自体が少なかったが,合格する生徒も毎年一人ぐらいであった。
 「余程勉強を頑張らねばならないね」
 と話し合った。
 私達が1年生の時,Nさんという勉強が良くできる6年生が社宅に住んでいた。時々姿を見かけるが話したことは無かった。
 Nさんは明善中を受験され,見事合格された。ところが,一週間後合格が取り消されたそうだ。その理由として,Nさんの生活態度が問題になったらしい。身体の大きな生徒で,多少気が荒いところがあり,級友や上級生とよく喧嘩して,相手を怪我させることもあったらしい。小学校の内申書にそのようなことが書いてあって,昔は久留米藩の藩校だったらしい明善中は,風紀についても厳しかったらしい。
 その時,2人の間では(大学のこと)(大学へ行くということ)については全く話が出なかった。目前の目標は(明善中学へ合格すること)であったから。

5.ナンバースクール
 大学とはどういう所か,中学を卒業後どんな経路を辿って大学へ進むのかを知ったのは,人吉中学校(人中)へ入学して同級生・上級生・先輩等と語らっているうちにだった。
 一般的なコースとしては中学5年卒業後(学力優秀な人は4年生修了で可),高校で3年間学び入試を受け大学へ進学するというものだった。
 高校として有名なのは,ナンバースクールと呼ばれた官立(国立)高校で全国に8校あるが,その中でも第一高等学校(東京),第三高等学校(京都),五高(熊本),七高(鹿児島)の名が売れていた。他に都市名をつけた,佐賀高校,福岡高校,山口高校といったような高校もあったらしい。ナンバースクールの学生さん,そしてこれから述べる帝大生は若い女性の憧れの的だったそうだ。否,大学へ進学を志す中学生にとっても女性以上の憧れの眼差しを持っていたものだ。

6.大学進学
 高校3年間を終えると大学へ進学するのだが,やはり有名なのは帝国大学で,これも全国に8校あったそうだ。東京帝国大学,京都帝国大学,九州帝国大学(現在の九大)など。
 ナンバースクールの学生は,希望者が多い学校や学部でなければ,無試験で帝大に入学できたそうだ。
 戦後,学制改革が行われるまでは,九州には九州帝国大学,長崎医科大学,熊本歯科大学と,三校の大学があったと思う。
 私の母方の親類の開業医の先生は,人中→五高→熊本医科大と進まれたそうだ。人中からナンバースクールへ入学できる人は,人中での最優秀な方で,この先生は大学へは無試験で入れるので,五高時代は社交ダンスに凝って一年留年されたと母が笑っていた。

7.大学,高校,高専
 私が人中へ入学した昭和18年春の人吉市球磨盆地の人口は,およそ15万人で,県立の普通科の中学校は,人中だけであった。だから大学まで進学しようと考えている人は大方人中へ進んだ。しかし大学まで進んだ人は学年の6割程度だった。家計の都合,本人の意志の決定で高等専門学校へ進学する人もいた。熊本市には工業専門学校,熊本薬学専門学校があり,近県では長崎経済専門学校,大分経専,鹿児島高等農林専門学校,宮崎農林,鹿児島水産専門学校などがあった。専門学校はある事についての専門的知識と技術を教えるので,卒業と同時に就職して,仕事に慣れるのも速かったようだ。
 高等学校は大学へ進むステップのひとつとなるのが大方の人の道であったが,まれに何らかの都合で高校卒業で終わられる人も,人中でもおられた。
 大学は他の2つより,より深くより広く学ぶので,社会へ出てから取り扱いが上となる。家計の都合で専門学校へしか行けなかった父は,身を以ってそれを体験した。そこで,
 「お前は大学へ行くのだ」と,私を洗脳したのだろう。終戦まではホワイトカラーとして働いていた父が,丸裸で2年後満州から引揚げてきて,菜っ葉服で魚の行商を始めたのも,少なくとも新制高校までは子ども達を出してやらねばと思ってのことだったろう。
 昭和30年代の半ば,人吉市の繁華街から1kmぐらい離れた農家の多い集落に住んでいた私達は,80軒程の家庭の中で高校へ通う子どもがいる家は4軒ぐらいで,周りの人達は私の家庭のことを「あんな貧乏なのに,なんで高校へ出すのか」と囁いていたそうだ。
 私自身の体験では,高校までは親に出してもらった方がよい。昼間働いて夜間の定時制高校で学ぶという方法もあるが,学力をつけるには昼間の全日制で学んだ方がよいと思う。

8.学制改革
 明治時代になって学校制度がつくられた。以前NHKが放映したTVドラマ「おしん」によれば,小学校4年生が義務教育だったようだ。「おしん」は4年生を終えると子守として他家へ奉公に出ている。小学校が6年間になったのはその後のことだが,私が小学生の頃は6年生を卒業して就職する人はいなくて,高等科2年または3年というのがあって,上級学校へ進学しない人は高等科で学んで社会へ出た。学費を出す必要はなく,小学校並みの支出で済んだ。
 終戦後間も無く日本の統治のため進駐してきたマッカーサーは,「日本人は12歳だ」と言ったそうだが,小学6年生は12歳だ。彼は本国の指令を受けて中学3年間を設け,義務教育を9年間とした。その上に新制高校,大学とした。
 これまでは小学6年修了で上級学校を受験していたが,中学3年終了で上級学校受験と変わった。

9.学校制度
 私達は小学校6年,中学校5年,高校3年,大学4年の時代を過ごしてきたが,戦後の改革で6年,3年,3年,4年,2年(大学院→行く人は少ない)となった。
 (1)6,5,3,4 が
 (2)6,3,3,4(2)となった。
 先日,現在の(2)の制度はあまりにも小間切れで,落ち着いて勉学する時間が無いのではないか,以前の(1)の制度に返した方がいいのではないかと国会議員の一部から声が出ているそうだとテレビが報じていた。
 私は中学5年制度に在籍していた事があるが,この5年間で上級生から学生としてのあり方,社会人としての生き方,男性とはどんな者かなどを学んだように思う。

10.隔世遺伝
 宮崎県のえびの市立病院へ出張させられていた2年目の夏の夜,人吉の父から電話が入った。「母(かあ)ちゃんが39°台の熱を出して,親類の先生に治療してもらっている。お薬を飲み出して3日経つが熱が下がらん。先生は腎盂腎炎だとおっしゃる。どぎゃんしたらよかろうか」と。
 私は点滴を加えれば治りも速うなろうと考えた。まだ高速道路はできていなかったが,加久藤峠にループ橋,ループトンネルができたので峠越えでも1時間あれば家へ着く。夕方仕事が終わってから点滴を持って家へ走った。腎盂腎炎は大体,右背部に圧痛がある。触診したが背部痛はない。右肋骨下部に軽いデハンスと圧痛がある。黄疸は無い。これは胆のう炎と胆道炎ばい,と考えた。翌日は,強肝剤と注射用抗生剤も加えて人吉へ行った。点滴3日間して熱が下がってきて,元気も出,食欲も出てきた。土曜日の午後,母を連れて主治医の病院を訊ねた。今後の生活の在り方や治療について主治医に相談しておくためだ。先生は玄関で入院患者の一人と話をしておられた。私は自分がやった治療については一言もふれなかった。「先生のおかげで母がよくなりました」とお礼をのべた。先生は,その患者さんに母を指して,「こん女(ひと)の息子と娘は医者ばい」と言われた。そして母の方を向いて「お常(つね)さんな,そぎゃん頭は良うなかったもんな。隔世遺伝じゃろな」と言われた。母はどう答えたらいいのか迷ったようで苦笑(にがわらい)していた。
 母の姉妹は敦(あつ),常(つね),きわ,久米(くめ)で“お”をつけてお常さん,おきわさん,お久米さんと呼ぶ事が多い。お敦さんとは言いづらいので敦姉さん,敦おばさん,姓を付けて中村のおばさん等と呼ぶ。
 私の上の妹は,九大附属高看に入学させた。小遣銭月3千円もあれば,他は無料だったから私が小学校代用教員をしながら送金した。私はその頃教頭さんの家に家庭教師も兼ねて下宿してくれと言われて下宿していたから当時下宿代3千円が不要で,その分を送金してやれた。
 妹は卒後上京し4年間看護婦として東京で働き,東北大医学部へ入学し,卒業すると東京へ戻り,親しくなった広大国文科卒の友人と共同生活を始めた。
 私は,妹2人を高看へ出すためや自分が病気して2年間休職したり,大学へ進学する学費を貯めるためなどで代用教員を続け,昭和26年高校を卒業し,昭和37年鹿大に入学するまでの11年間を過ごした。妹らが高看を卒業して就職して『大学へ行く順番が廻ってきたぞ』と思い,本格的な受験勉強を始めた。3年後鹿大へ入学できた。
 私を大学へ入学させてくれた第一の要因は「お前は大学へ行くのだ」という父の言葉だ。(了)

 西橋弘成先生の訃報に接し,ご家族ご一同様のお嘆きはいかばかりかと拝察申し上げ,
心よりお悔やみ申し上げます。
 これまで先生には多くの原稿を鹿児島市医報へお寄せいただきました。
 ここに先生よりご寄稿いただきました一覧を掲載させていただきます。
 これまでのご寄稿に感謝申し上げますとともに,安らかにお眠りくださいますよう祈念いたします。
(鹿児島市医報編集委員会)



西橋弘成先生ご寄稿一覧
通巻 和暦 号 頁 題
30 平成03 1 30 思い出の歌でつづる私の60年
31 平成04 1 42 007は二度死ぬ
31 平成04 8 40 夜尿症
33 平成06 1 43 煙草(1)
33 平成06 8 83 煙草(2)
34 平成07 1 60 随筆 「和顔・愛語・讃嘆」 を読みて
34 平成07 8 101 終戦・飢餓を生きる
35 平成08 1 47 随筆 「いじめ」 考(その1)
35 平成08 8 45 「いじめ考」(その2)
36 平成09 1 53 「いじめ」考(その3)
36 平成09 8 48 「いじめ」考(その4)
37 平成10 8 37 私の「少年H」
39 平成12 8 28 8月15日
40 平成13 1 27 随筆 旅
41 平成14 8 56 アルバイト
41 平成14 9 40 アルバイト(2)
42 平成15 1 14 5+12×10=?
42 平成15 8 34 精霊舟
43 平成16 1 43 見果てぬ夢
43 平成16 8 36 続・見果てぬ夢
44 平成17 1 43 風
44 平成17 4 27 風(2)
44 平成17 8 37 診察あれこれ
44 平成17 9 15 診察あれこれ(2)
45 平成18 1 34 三社参り
45 平成18 8 50 Life−Line
46 平成19 1 46 兄と弟
46 平成19 3 26 兄と弟(2)
46 平成19 8 49 恩  師
46 平成19 11 26 恩師(2)
46 平成19 12 51 恩師(3)
47 平成20 1 65 恩師(4)
47 平成20 3 29 恩師(5)
47 平成20 5 33 恩師(6)
47 平成20 8 46 旅姿三人男(出会い)
47 平成20 12 31 旅姿三人男(2)登城
48 平成21 7 15 風呂
48 平成21 8 62 風呂(2)
48 平成21 10 16 ボート
49 平成22 4 26 あなたと共に
49 平成22 5 48 ビール
49 平成22 5 50 ナイフ
49 平成22 6 17 就職
49 平成22 10 29 占い
50 平成23 1 56 80年の人生
50 平成23 2 43 80年の人生(2)
50 平成23 3 18 80年の人生(3)
50 平成23 4 41 ニートと月見草と
50 平成23 5 43 開聞岳を眺めて
50 平成23 7 34 長崎鼻への憬れ
51 平成24 3 30 おかしなこと2つ3つ
51 平成24 12 50 サハリン
52 平成25 1 46 受験と就職
52 平成25 6 20 原因と結果
52 平成25 7 33 富山紀行記
52 平成25 9 31 花
52 平成25 12 28 妹を育てる
53 平成26 2 29 九月の空
53 平成26 5 38 地図
53 平成26 10 33 作文
53 平成26 11 37 学芸会
54 平成27 1 18 干支・「ひつじ」
54 平成27 2 44 大学への道





このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2015