=== 随筆・その他 ===
「薩 摩 と 馬」
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南区・谷山支部
(東開内科クリニック) 植松 俊昭
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遠い日,鹿児島大学に入学して余よ所そ者ものの筆者が気づいたことは,鹿児島県に「有馬」姓の多いことであった。その理由に本県が,古来優れた馬を産し有する武の国だからであろうことは,容易に察しがついた。
以下は10月28日付の南日本新聞より。
【あの関ヶ原の戦いでの敵中突破で有名な島津義弘の騎乗した名馬の名は「小紫(こむらさき)」。現霧島市福山にあった島津の牧場「福山牧」の産とされる。福山牧は1580〜1863年にあった九州最大の馬牧場。今もその名が残る同市牧之原辺り周囲約50qに及び,最盛期には2千頭以上がいた。霧深く,牧草の繁茂に適していたようだ。当地の前田義人氏曰く『福山牧の馬は密貿易で取り入れたアラビア系を交配し,10〜15pほど脚が長かった。小紫も足が速かったのだろう』と。】
ちなみに現在のサラブレッド,優駿はアラブ馬を改良したものであることは周知の事実。なるほど,このような大型の四調者(じょうぶ)なアラブ混血馬に騎乗の,剽悍で聞こえた薩摩武者の強さは本物であり,他国が恐れをなしたのも当然のことといえよう。
余談ながら,長篠の合戦で織田方の鉄砲隊と戦った武田の騎馬軍団の馬は,今日からみれば,随分と小型(現在のポニー程度)であったことが明らかになっている。
話はかわって,『平家物語』の名場面「巻第九・宇治川先陣」。源氏方「磨墨(するすみ)」に騎乗の梶原源太影季と「生?(いけずき)」に騎乗の佐々木四郎高綱による宇治川渡りの先陣争いの話である。先陣争いの結果は「するすみ」は宇治川の激流に流され斜行し渡河したが,源頼朝下賜の「いけずき」は流されることなく一文字にざっと渡り切って佐々木が勝利した。このことは,両武者の手綱捌きの程はさて置いて,「いけずき」が「するすみ」より大型の馬であったと思われる。以前に佐々木が操った「いけずき」は薩摩産馬であったと何かの本で読んだことがある。その名の由来はこの馬が「池田湖」近くの産で,その額にあった白紋が丁度池田湖面に浮かんだ三日月に似ていたからだと(「池月」)。その真偽のほどは定かではない。しかしもしそうだとしたら,「いけずき」ではなく「いけづき」のはず(『平家物語』には数種異本があり,それぞれ「生食」「生喰」「生?」「池月」などと表記されているようだ)。もっとも本物語は本来琵琶法師によるひらがなの語り物の口誦文芸であり,「いけづき」の可能性もあながち否定はできないかも知れない。
ついでながら,鹿児島ラーメンの有名店「小紫」の屋号も,この義弘公騎乗の駿馬と何らかの関連があるのだろうか。

日置市伊集院駅前にある島津義弘銅像

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