はじめに
私は小学校6年間を3つの学校で学んだ。昭和12年4月,福岡県荒木村の荒木小学校へ入学した。台湾で台湾製糖会社に勤めたことがある父が,荒木村にある台湾製糖の分工場へ就職したからだ。台湾から熊本市へ帰ってきて,自営業を始めたがうまくいかず,再就職することになったのだ。
しかし,昭和12年7月,日中戦争が始まると,政府は砂糖工場を軍需工場に14年からすると発表した。父はそれを知って,13年11月サハリンの石炭会社へ就職した。社宅ができるまで,母と私達子どもは,熊本県人吉町の母の実家の離れを借りて住まった。学校はすぐ近くの人吉東小学校に転校した。
1.学芸会
5年生の夏から6年生の夏までの一年間だけ私もサハリンへ住んだ。そして中学受験のため17年8月単身で人吉へ帰ってきて伯母(母の姉)の家へ下宿した。
荒木小学校とサハリンの塔路町の小学校では学芸会は無かった。13年小学2年の11月人吉町へ移ったのだが,その年,東小学校で学芸会があったかどうか覚えていない。その後は毎年あったので,中止したのではなかろう。転校間もなくのことで,東小学校の生活に慣れることに気が向いて失念したのだろう。
3年生の時のことはよく覚えている。学年4クラスから数人ずつ選ばれて,ひとつの劇をすることになった。放課後ひとつの教室に集まって練習を始めることになった。その練習の初日,私は前日風邪をひいて休んでしまった。翌日熱もひいたので登校した。放課後練習の教室へ行ったら,初日休んだので他の生徒が私の役に当てられ,私は学芸会に出られなくなった。せっかく選ばれたのに出られなくて悔しかったが,仕方ないことであった。だから3年生がどんな劇をしたかも覚えていない。
4年生時は,各学年,各クラスが何かをすることになった。男子1組の8人による寸劇が始まった。それでも私達2組の担任の鏡先生は何もおっしゃらない。「俺達のクラスは何もせんとじゃろかい」と思っていると,1組の劇が半分ぐらい進んだ時,先生が「西橋,正岡,次は君たち2人席書きをしなさい。道具も,用紙も,手本も幕の内側に置いてある。墨をたっぷり筆につけて,黒く大きい字を書くんだよ」とおっしゃった。
普通は4年生で習字を習うのだが,鏡先生は習字の時間を作られなかった。席書きが終わってから,正岡君は1年生の時から書道塾へ通っていると話した。私は塾など行ったことはない。ただ,姉が荒木小学校2年生の時,放課後担任の先生に数人のクラスメイトと習字を習っていたが,秋になって日暮れが早くなってくると,母が「弘ちゃん,姉ちゃんを迎えに行ってきて」と言うので学校へ行き廊下から練習を見ていると,先生が「あなたも入っておいで。練習してみなさい」と言ってくださって,練習を6カ月ぐらいしたことがある。
鏡先生は,2人の作文の文字を見て選ばれたのだろうと思う。
2.中学・高校時代
昭和18年春,人吉中学校に入学した。中学では文化祭はなかった。戦時中ということもあったろう。戦後,2年間の病気休学のあと,新制高校2年生に復学した。昭和25年高校3年生の秋,文化祭が行われた。午前中2時間の授業を受け,講堂に飾られた家庭科,書道部,絵画部等の作品を見た。
それから2年生の野村君の「アルルの女」という歌曲の独唱が最初あった。次いで演劇部の劇があった。菊池 寛の「父帰る」を演じた。印象に残ったのは,妻子を捨て女のところへ住んでいた男が,女に捨てられ我が家へ帰ってきた。男の子ども2人の兄の方は,そんな父を家に入れようとしない。お母かあさんはというと,やはり受け入れる態度を見せない。男は2人の態度を見て,仕方なく背中を見せて立ち去ろうとする。その時弟が「お母さん,あんたも……」と叫ぶ。その言葉の余韻が私の心情を揺さぶった。
3.教員時代
昭和26年3月人吉高校を卒業し,行商を続けたあと,7月何とか人吉盆地最東の水上村の岩野小学校の代用教員に採用された。学年1クラスの小規模校だ。算数科の主任を受け持たされた。夏休み,人吉・球磨郡の小・中学校の教師全員,人吉東小学校で数学の講習会を受けた。
宿題に二次関数の問題が出た。各校1枚熊大へ送ればよかった。教頭が「西橋先生,あんたが解答して出してくれんな」と言われた。人高2級先輩も,球磨農業高校卒の新人もいる。何故私がと思ったが,教頭の命令なのでやった。高3で習っていたので難しいとは思わなかった。一カ月後,合格の通知があり,全職員5単位をもらった。教頭は校長へ,代用教員は正教員へ近づく一歩前進の道が開けるのだ。
初担任は2年生だった。岩野小学校では学芸会を持った。娯楽の無い山村では,学校の運動会と学芸会は村民を喜ばす大きな行事だった。
27年の学芸会では,私は2年生向きの劇の本を買って,その中から「鳴いた鶯」という題の劇を選んで,半数の生徒を指導して劇をさせた。
文章を読んでいて私自信がピンとこない物語であったので,劇もちっとも面白くなかった。翌年,また2年生を受け持った。今度は「かぐや姫」をやった。全生徒使った。服装については何も指示しなかった。各家庭の親ごさんが子どもの役を考えて,服装をそろえてくださった。殿様は羽織袴,お姫様は内科クリニックの直子ちゃん。七・五・三で作ってもらった上等で輝かしい和服といった具合だ。「かぐや姫」のストーリーは大体私は知っていたので脚本は作らず口頭教授した。直子ちゃんの和服が狭い講堂を明るく輝かせた。
4年生の受け持ちになった時,坪田譲治の児童小説「泣いた赤おに」を本で見つけた。これをやろうと決めた。小説をよく読み,それを脚本にした。必要なところにはト書を入れた。
服装は,青鬼に青シャツ,赤鬼に赤シャツを着ることと伝え,残りの生徒は村人の和服(ゆかたなど)でよいとした。
暴れん坊で村民に嫌がられている赤鬼を,村民に慕われるようにするよう一計を案じた青鬼の計画が効を奏した。赤鬼は,青鬼に感謝の手紙を書く。青鬼はそれを舞台の中央で読む。
その時,赤鬼に幕の内側でマイクを使って読ませる。赤鬼が直接青鬼に感謝している手紙の内容が講堂の後方まではっきり届く。バックミュージックに先輩の「トロイメライ」のレコードを流した。トロイメライのメロディーが,劇の雰囲気を深めた。後で知ったが,このやり方をNHKも使っていると。
見物にきてくれた先輩が,夕方下宿に帰って会った時,「西橋君,良かったばい。良うできた」と言ってくれた。
4.理科主任
理科主任だった先輩が転勤になり,教頭が私に理科主任をしてくれと言われた。
これまで学芸会は,劇,女子のダンス,クラスの斉唱などが行われていたが,理科主任の命を受けたから,理科的なことを5年生の担任になった時に考えた。何をするか,本を漁った。「水が燃える」という項目が目に留まった。これだ!!
水は火を消すが,水が燃えるとはほとんどの人が考えたことはなかろう。私はその項目を読みかえし1人で運動場の片隅で実験を繰り返した。水は水素と酸素の結合でできている。これを分離し水素を使う。酸素は空気中に多いので,これを使うと大火事になる恐れがある。分離は電気分解でするのではない。ある種の薬品を使うのだ。4〜5回実験してうまくいった。2人の理科好きの男子生徒に放課後やり方を教えた。彼等は半月すると,私が口や手を出さなくても水素を取り出して,ガラスの筒の先にマッチの火を近づけると明るく燃え出させることができるようになった。器具のうしろに黒く塗った板を置くと,昼間でも燃えるあかりがよく見えた。
理科主任として,実験披露の2人の傍らに私は立っていた。実験を始める前に術者の1人に,「皆さん,水は火を消すが,燃えはしないと思っておられるでしょう。だが,水が燃えるのです。その証拠をただ今より実験いたします」と口上を述べさせた。実験はうまくいき,何の危険もなかった。
多くの拍手をいただいた。同僚に,私が理科主任として適任であることを少しは認めさせ得たと思った。
5.小学校との別れ
山村の岩野小学校に8年間勤め,人吉市の自宅から汽車で30分の免田町免田小学校へ転勤になった。6年生の担任と決まっていた(5クラスあった)。6月父兄参観の授業を学校が企てた。そしてその授業である父兄が「今度の先生は,頼りにならぬ」と言ったと1人の同僚から聞かされた。その言葉が起爆剤となって,長い間持ち続けていた大学進学の受験勉強を,その夜から始めた。3年後,11年間働いた小学校とお別れできた。
風光明媚,温暖な鹿児島市へ移り住むことができた。
6.追加
理科主任としての仕事がもうひとつあった。電話局が古くなった電話器を各校にくれるという。2駅先の多良木小学校まで私が取りに行った。これを児童に見せるだけでは意味がない。
ちょうどその頃,球磨川上流にダムを造り始めた。工事関係の人々が家族とともに岩野集落に住むようになり,教室が不足したため運動場の隅に2つ仮教室を造った。職員室とその教室との連絡は,大声で呼んでも,窓が閉めてあれば聴こえない。
この電話器が使えたら便利だ。プロに頼めば簡単にできるのだが,そんな人は傍らにいない。自分でやらねばならぬ。手引き書もない。試行錯誤の上,何とかやりとげた。人の通行の邪魔にならぬよう高めに張った。これでお互いの連絡が不自由なくできた。われながら満足感を味わったひとつの作業であった。

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