写真修行
今日も写真のLサイズ10枚を持って教室(講座)に向かう。教室では受講生が持ち寄った写真を講師が一枚一枚批評し,各受講生も思ったことを述べ合う。そして,また次回の10枚を撮りにいく。これを繰り返し実践していくことがこの講座の特徴であるが,これは受講生にとっては大変なプレッシャーになるのである。
私は,昨年から地元の公民館講座で“写真”を受講している。受講者は二十数人で,ほとんどは第一線を離れたリタイア組である。毎月2回,2時間の講座は前半が写真の基礎を学び,後半は各自が持ち寄ったLサイズの合評会となる。講師が一枚一枚批評し,受講生各自も疑問点など出し合い結構勉強になっていると思う。でも,この10枚を毎回持っていくためにどれだけ写真を撮ることか,みんな大変な苦労をしていると思う。私などもおそらく毎回100枚以上の写真を撮るのだが,その題材と場所選びが大変で,家の庭の花で済ませることもあれば,真冬の夜明け前に海岸にでかけ,気嵐を撮ったりすることもある。そしてその中から10枚を選ぶことになるのだが,元々があまりいい写真がないのだからその苦労はお分かりいただけると思う。
昨年10月,この講座の主催で撮影会があった。東京から第一線で活躍中の講師を招き,1日バスを借り切って出水のコスモスと武家屋敷,それに長島の夕日を撮りにいったのである。現地に着くまでの車中では,撮影のポイント等について講義がありこれも大変有意義であった。現地の天気は最高で,特に長島の夕日は雲ひとつない状況で,「少しくらい雲があった方がいいのに」というような贅沢な声も聞こえるほど素晴らしい撮影環境に恵まれた。海岸に60台もの三脚がずらりと並んでいる姿は壮観で,みんな,水平線に沈んでいく太陽の感動的な瞬間を逃すまいと必死にシャッターを切り続けていた。青空がだんだんと茜色に染まりだし,海面も赤くキラキラと輝く。太陽が水平線に近づくにつれ逆ワイングラスになったかと思うとあっという間に吸い込まれていく。そして,その後の水平線と空が一体になった色の素晴らしさ。感動の瞬間であった。
そのほか,昨年は11月に佐賀のバルーンフェスタを撮ろうと,友人とともに嘉瀬川河川敷に出かけたりもした(その時のことは既に本誌1号に寄稿の機会をいただいたところである)。
このようにして教室1年目の卒業のときが来た。3月にはこの1年の集大成として“卒業写真展”があった。この1年間で撮った写真の中から4枚を選び,四つ切り以上に引き伸ばして会場に展示することになったのだが,大きく引き伸ばしてみると全然迫力が違い,我ながらこれがあの写真かと見まがうほどであった(ご覧いただけないのが残念ですが)。
多くの写真仲間と出会い,写真の楽しさなど実感できた1年であったが,同時に写真の難しさも実感させられた1年でもあった。いよいよ今年は2年目,より楽しく仲間との交流を深めるなかで,少しでもいいものが撮れればと思っている。
人生七十古来稀なり
“酒債は尋常行く処に有り人生七十古来稀なり”これは唐の詩人杜甫の詩「曲江」の一節である。いまではそれほど珍しくもないような70歳だが,それでもやはり節目として祝いたい古希である。
今年4月,懐かしい中学時代の友人から電話がはいり,“古希のクラス会”を玉名市でしたいから出てこないかと言う。私は古希など全く頭になく,1年早いのではないかと言うと,古希は数え年でするものだという。調べてみると還暦は満60歳だが,古希は数えの70歳で祝うということがわかった。1945年生まれとしては納得すると同時に嬉しいやら歳取った気分になるやら不思議な気がした。
参加すると,中学卒業以来初めてという人もいて,初めのうちはなかなか名前が思い出せないが,いろいろと話すうちに段々と中学時代にタイムスリップしていくようで当時のことが鮮やかによみがえってくるのである。“あの先生にはよく叩かれたもんだ”“誰々にはよくいじめられたよ”“おまえとはよく相撲をとったなー”“あの人が好きだったのよ”“あの人はどうしているのか”“あいつも亡くなったのか,寂しいね”など等話は尽きない。みんなで歌い,踊り,語り合い,明け方まで寝ることも忘れたように,まさに古希の青春を謳歌したひと時であった。
そして誰がいうでもなく「毎年やろう」ということになったのはいうまでもない。
“人生七十古来稀なり”
クラスの仲間は41人で,そのうち既に8人が他界していることを思うと“古来稀なり”の意味をかみしめ,生かされている人生を仲間・家族とともに楽しく,有意義に生きていかなければと思ったクラス会であった。
平和であればこそ
私は医師会を退職させていただいたとき,本稿で“悠然として南山を見る”の心境であるとして,取り留めのないことを寄稿させていただいた。今回もその機会をいただきいろいろと考えたが,どうしても“悠然として南山を見る”の心境ではない。
いま国政の場では,集団的自衛権行使容認の問題が“与党間協議”という形で論議されている。単に憲法の解釈を変更することで,集団的自衛権を行使できるようにしようとしているのである。集団的自衛権を行使できるようにするということは,わが国を“戦争のできない国”から“戦争のできる国”へ180度変えるということであり,事実上の改憲である。戦後69年間,戦争をせず,殺しも殺されもせずにくることができたのは平和憲法があったからだと思うし,それはまた先の大戦の犠牲者310万人の遺産である。そして今日,我が国は平和国家としての地位と国際的評価も受けていると思う。これをいま急いで変更しなければならない理由も私には理解できない。
このような重大なことが,一内閣の閣議決定だけで決めていい事とはとても思えない。当然,主権者である国民の意思で決めるべきことだと思う。安倍首相自身,当初,憲法改正をしやすくするために改正の発議要件を緩和しようとしていたが,そのとき「憲法を国民の手にとりもどす」ということをその理由にあげていたはずではなかったのか。それが今回の解釈改憲とは・・・。まさに憲法を政府の手に握り,国民から取り上げることではないのか。このような国民無視・国会無視のやりかたに大きな不安を持っているのは自分だけではないと思う。いまからでも遅くはない,国民の声を聞いてほしいものである。
このような状況のなかで,“悠然として・・・”の心境にはなかなかなれないが,私たちが自由にものをいい,ワールドカップや五輪など楽しめるのも,やはり平和であればこそだと思う。「退屈きわまりないのが平和」ともいうが,戦争になってしまえばそれは止められなくなる。限定的などありえずどんどんエスカレートしていってしまう。そうならないうちに,私たち一人ひとりが声を上げていかなければならないと思う。
(本稿提出後の7月1日,与党間協議は合意し,政府は集団的自衛権の行使容認を閣議決定しました。わずか1カ月あまりの与党間協議だけで,解釈改憲をしてしまったのです。行使容認の新“三要件”が定められ,これが憲法上の明確な歯止めとなっている,との説明のようですが,この新“三要件”は抽象的な文言であり,該当するかどうかの判断はときの政権が行うものですから,とても行使容認の歯止めになるとは思えません。集団的自衛権の本質は,他国の戦争に日本が加わることにほかなりません。この本質は変えようがないのです。これから,関連法整備が行われることになるようですが,国民の間では反対の声や,不安の声が大きくなってきています。私たちは決して諦めず,声を上げ続けることが大事ではないでしょうか。子どもたち,孫・ひ孫たちのために・・・・・・)

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