緑陰随筆特集
清水信一郎先生のご逝去を偲んで
「医者の家に生まれ,医学部を出て,十分,臨床をやった」清水信一郎先生へ
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清水信一郎先生は,本年1月27日,ご自宅での療養生活を終え,奥様の見守る中,静かにご逝去されました。ご遺体は,ご家族に見送られ,献体として鹿児島大学医学部に帰って行かれました。
先生のお父様は京都で内科を開業されておられましたが,先生が小学校入学前にお亡くなりになり本籍地の秋田県に帰られたとの由。先生は,昭和34年弘前大学医学部をご卒業後,神経生理学を専攻され,ハーバード大学医学部神経病学教室にもご留学されておられます。昭和46年には北海道大学歯学部薬理学教室の助教授,そして,昭和55年には,創立時の鹿児島大学歯学部薬理学教室の教授として迎えられました。平成2年には定年まで10年を残して教授職を辞職され鹿児島市西陵2丁目で開業されました。「開業医を取り巻く環境はきわめて厳しいのに,大学教授という,世間一般では身分も保障され時間も行動も自由度が大きく,給料も決して悪くないと考えられる立場を捨ててなぜ開業医になったか」という疑問に対し,「医者の家に生まれ,医学部を出た以上,一度は臨床をやってみたい。定年になってからでは遅すぎる」と考えたと,鹿児島市医報に述べておられます。先生は上記のような輝かしいご経歴を持ち,また,非常に温厚で,謙虚なお人柄なので,平成9年には市医師会理事,平成16年には副会長を務められておられます。我々,実地医家にとりまして,極めて心強い頼りになる有能な先生が医師会に入ってきていただいたという気持ちでいっぱいでございました。
私と先生とのお付き合いの始まりは,先生が市医師会の理事をされ,市医師会が企画しているMBCテレビの「お元気ですか」という健康教育番組の企画を私が市内科医会からの代表で担当している時でした。定期的に毎月の話題と演者を決める作業でした。打ち合わせの合間に雑談を交わすのですが,先生が「先生,僕は今,看護婦さんの講義をしているのですが,何か良い医学略語辞典はありませんか」と問われたことを印象深く記憶しています。大学教授をされていた先生からの質問ですし,すこし戸惑ったことを覚えています。後に,先生が読書家で蔵書も多く,さまざまな辞書に興味を持っていることを知り,合点がいった次第です。
その後,平成16年から林 茂文市医師会会長のもと,副会長を務められ,同時に市内科医会の林 茂文前会長を引き継ぎ,市内科医会の新会長に就任されました。平成17年2月には市内科医会が30周年を迎え記念講演会が開催されました。市内科医会にゆかりのある先生方を講師に迎えました。名古屋学芸大学学長(元鹿児島大学学長)井形昭弘先生,元鹿児島市内科医会会長 沖野秀一郎先生,元鹿児島県民総合保健センター長 尾辻義人先生をお迎えして盛大に行われました。清水先生の会長挨拶はいつも豊富な語彙力を生かした格調高いものでありました。先生は外国の童話も愛読されており,隔月に開催される定例幹事会が始まる前の雑談で,美しく愛らしい絵が挿入されている童話の本を紹介してくださることもありました。また,大学時代からテニスが得意であられたようで,清水先生がご病気になり診療所を閉院する折にも,テニス仲間のご縁で梅林雄介先生が快く引き継がれました。ご病気になる前は,電動アシスト自転車にてサイクリングを楽しまれることも話しておられました。また,医師である息子さんが,南極大陸の昭和基地に医療班で行かれた折,記念に南極の氷を持ち帰られ,その氷の一部を出席した幹事の先生方に笑顔で誇らしくお分けになったことが,懐かしく思い出されます。
また,診療の傍ら,幼稚園や小,中学校の校医も務めておられ,一方では,先の医師会活動に加え,県内科医会の副会長も務められ,日本臨床内科医会の理事の役割も果たされました。これらの活動が認められ,地域医療に貢献したとのことで,平成21年4月東京で,日本臨床内科医会の地域功労賞を受賞されました。
先生は,平成20年春,以前手術された癌の再発で体調を崩され,市内科医会の会長職を退くことになりましたが,しばらく治療に専念した後,大分,体調は回復し,短時間の診療業務はこなすことができるようになっておられました。また,時に,市内科医会の学術講演会や市内科医会役員の忘年会にも出席され,元気なお声をお聞きすることができました。しかし,約1年前から病状が次第に悪化,在宅治療を希望され,江口千恵子先生の献身的な訪問診療により,先生は奥様と有意義な日々を送られておられましたが,平成26年1月24日,ほんとうに眠るが如くほとんど苦しみもなく静かに息をお引き取りになられたとの由。ご自宅のきれいな窓のある明るいお部屋のベッドに横たわっておられる先生のお姿は,まさに,童話の世界のような雰囲気でございました。
先生の歩まれた道は,「医者の家に生まれ,医学部を出た以上,一度は臨床をやってみたい」という願いを十分果たされたと思いますし,実地医家の歩む一つのヒントになる生き方ではなかったかと考える次第です。改めてご冥福をお祈りいたします。
合掌

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