随筆・その他
私 の テ ニ ス 観 戦 の 思 い 出
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北区・錦江支部
(井上メンタルクリニック) 井上 賢人
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あまりこれといって凝り症になることもない私がこれまで飽きずにしていることと言えば,テニス観戦です。自分自身は上手にはなりませんでしたが,中学時代は軟式,高校から大学時代は硬式テニス部でテニスをしていました。学生時代は自分たちの試合以外はテレビ観戦で,ウィンブルドンやセイコースーパーテニス,ニチレイレディース,東レ・パンパシフィックオープンなどの放送がありました。私が見ていたのは主に男子の試合で,ビヨン・ボルグやジョン・マッケンロー,ジミー・コナーズの全盛期の後,マッツ・ビランデルやイワン・レンドル,1980年代半ばからはステファン・エドバーグとボリス・ベッカーが目立つようになり3年連続ウィンブルドンの決勝で対戦した頃から本格的に見るようになり,さらにビデオ録画した同じ試合を飽きもせずに何度も見て過ごしていました。グラスコートへの憧れもあって,結果的にNHKでウィンブルドンを中心に見ることとなり,ステファン・エドバーグみたいな華麗なサーブアンドボレーができたらいいと憧れていました。
そんな中で強烈に好きになったプレーヤーが,クロアチアのゴラン・イワニセビッチという選手です。あまりメジャーな選手ではありませんが,一部のコアなファンがいるのではないかと思います。身長193センチもある左利きの選手で,サーブの時にボールをトスしてからすぐに打ってしまうというクイックサーブが持ち味で,しかもサーブの球の切れが非常に鋭くサービスエースを量産していたため「サンダーサーバー」と呼ばれていました。圧倒的に勝ち進むこともある一方で,性格がいわゆるキレキャラで,試合途中にすぐにキレて大声を出したりラケットを折ったりと激しい怒りを出してしまって簡単に負けてしまうこともありました。1992年にウィンブルドンの男子決勝に進みましたがアンドレ・アガシと対戦してフルセットの末負けてしまい,アンドレ・アガシがグランドスラム大会(オーストラリアンオープン,ローランギャロス,ウィンブルドン,U.S.オープンの4大会のこと)初優勝を決めました。その試合の最終セットの大事な場面で,ファーストサービスが連続で決まらなかった際に当時のNHKのアナウンサーが,「サンダーサービスがこない」と連呼していたのが印象的でした。その後,1994年,1998年,2001年とウィンブルドンの決勝に進んでいます。1994年は第1セットからの連続タイブレークで2セットダウンになったところで集中が切れてしまい3セットは1ゲームも取れずにピート・サンプラスに,1998年は何とかフルセットまで行きましたがやはりピート・サンプラスに負けてしまいました。もうだめかと思った2001年にワイルドカード(主催者推薦枠)で出場し,決勝でフルセットの大熱戦の末にパトリック・ラフターを下して4度目の正直で初優勝しました。最終セット終盤で1992年と同じようにファーストサービスが決まらなくなり,その時と同じNHKのアナウンサーが,「自分に勝て,ゴラン・イワニセビッチ」と言って(恐らく)応援していたのにグッときて,一人でテレビの前で初めて涙ながらに祈ってしまいました。さらに試合が決まった直後に忘れ物を大学の医局へ取りに行った際にも,うれしさのあまり医局で小躍りして博士論文のために居残っていた先輩たちの邪魔をしてしまう程でした。ちなみに,この年の男子シングルス4回戦でピート・サンプラスの8回目のウィンブルドン優勝を阻止したのが,テニス史上最高プレーヤーと呼ばれることになるロジャー・フェデラーでした。
その頃まで実際にプロの試合の観戦は,1991年に鹿児島で開催されたデビスカップのアジア/オセアニアゾーンの試合だけだったため,徐々に他のプロ選手の試合をこの目でたくさん見たいと思うようになりました。そこで,東京のお台場にある有明コロシアムまで行ってジャパンオープンテニスを観戦するようになりました。なぜかトップ5にいるような選手が多く来なくなった時期で,チケットも比較的簡単に電話などで席の場所まで注文可能で,男子と女子の両方の試合を観戦できました(今は男子と女子の大会が別開催で,男子のみ)。宿泊を会場に近いホテルに予約できるとよいのですが,予約時期が少し遅れると空室なしになってしまいます。新橋,銀座周辺に泊まってゆりかもめに乗って会場入りするには満員電車に乗る覚悟が必要で,結局りんかい線を利用して会場に行ける所に宿泊するようになりました。
会場では松岡修造プロが試合間での空いた時間の盛り上げ役で,次の試合の選手,対戦の見どころを解説してくれます。一度,東京が台風の直撃を受けたことがあり,トラックが何台も横倒しになっている映像がニュースで流れたほどでした。有明コロシアムは屋根があるから大丈夫だと思っていたら,コートサイド席やコート上に大量の雨漏りがして試合(多分,イリ・ノバク対レイトン・ヒューイットの試合)が中断した時は,運転見合わせになっている電車などの運行状況も松岡プロが紹介してくれました。
松岡プロが今後成長株として紹介してくれた選手で一番有名になったのはマリア・シャラポアだと思います。彼女がWTA(女子テニス協会)ツアー初優勝(2003年)したのはジャパンオープンです。翌2004年にウィンブルドン女子シングルスで優勝した約3カ月後には来日してくれないかと思ったのに有明コロシアムまで出場しにきてくれて2度目の優勝して帰って行った彼女は,とてもいい人なんじゃないかと勝手に思っています。今となってはグランドスラマー(グランドスラム大会すべてに優勝した人)で,名プレーヤーに名を連ねる存在になっています。
2005年くらいまでは決勝当日でも自由席なら当日券購入が何とか可能でした。状況が突然変わったのが,2006年にロジャー・フェデラーが出場してからでした。チケットの販売状況をチェックするのが遅れ,結局当日券を求めて朝から並ぶことになり,朝7時過ぎから大勢の人の列に並んで,やっと会場入りできました。やっと目にしたそのプレーは全盛期そのもので,会場で見ていてもベースラインから打ったフォアハンドの球が相手のベースライン際まで全く見えない程の切れ味でした。全体の動きも滑らかな上に速く,簡単に打点に入ってしまうあまりの余裕に驚きました。さすが,歴代最高プレーヤーです。全く隙もなく完勝して優勝しました。ただ,来日したのはツアーの連戦の疲労の問題からその1度きりでした。それ以降は,世界ランキングベスト5に入る選手,例えばラファエル・ナダルなども参加してくれるようになりました。しかし,シーズン終盤のU.S.オープン終了後の大会のため,疲労や故障で毎年参加することが難しい状況のようで,ここ数年毎年来てくれるのはダビド・フェレールのように強靭な肉体の持ち主が多いと思います。
私が大学から実家のクリニックに職場を移し,土曜も診療するようになり,東京での観戦がしにくくなった頃から,それまで契約していたWOWOWがジャパンオープンテニスを長時間にわたり生中継するようになりました。テレビの音響も良くなり,まるで会場にいるかのような臨場感があります。フードコートにある大好きなドネルケバブは食べられませんが,すっかりそれで満足してしまい,ここ数年はテレビ観戦に戻りました。また機会があれば会場に足を運びたいと思います。
(選手名の敬称略)
| 次号は,花倉病院の倉野 裕先生のご執筆です。(編集委員会) |

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