前がき
私が小学生の時には社会科という学科はなかった。だから高学年になっても地図を手にしたことはなかったと思う。歴史もなかった。
では日本のこと,世界のことについて何も知らなかったかというと,修身(今の道徳みたいな学科)という教科があってその教科である程度の日本の地理や歴史を覚えたように思う。
雪山へのあこがれ
年が明けたからもう昨年になったが,11月末頃,雪をかぶった山の連なりを眺めたい思いが湧いてきた。昭和16年8月から昭和17年8月までの1年間(小学5年から小学6年)サハリンの塔路という鉱山町で過ごした。塔路は間宮海峡に面していて,樺太山脈は太平洋に近く連なっていた。が,1年中山頂には残雪があり,太陽の光を受けると,夏はキラキラと雪が輝いて,登ってみたいという心を起こさせた。
私は山男ではない。山男は夏山だけでなく,真冬の日本アルプスの山々に登り山頂を東から西へと移っていく。時々新聞にその山男達のグループが雪崩にまきこまれ,全員400mも下落し,運よく命は助かる人もいるが,死亡する人もいると報道される。ヘリコプターが救助に飛び,救助隊が出動する。山男達は山の危険さを十分認知して出かけるのだが,天候や山の気温の変化が雪崩を起こすらしい。何故そんな危険を冒してまで雪山に登るのか。山が好きなのだろう。ある山男は,「そこに山が在るから登るのだ」と言ったそうだ。
富山市へ行く
雪山を見たくなったので,富山市に住む弟の家へ行くことにした。家族は肺炎をした身だからと反対したが,12月初旬中央駅で新幹線に乗った。新大阪駅で富山行の特急サンダーバードに乗りかえて,夕方5時富山駅に着いた。富山市での事は後述する。
大きめの封筒届く
3週間弟の家で雪山の景色を楽しんで12月中旬家に帰り着くと,大きめの封筒が届いていた。差出人は,いつも私が切符を頼む旅行会社からだった。早速開けてみると,大(A)小(B)の2枚の地図だ。
(B)は縦53cm,横58cmで,右上から左下へかけて日本の県が色分けしてのっている。小笠原諸島・沖縄諸島は傍に書いてある。この地図を見ると47都道府県の位置,広さが一目瞭然だ。私が全く行っていない県は2つ。高知県と三重県。残りは列車かバスで通過したり,ちょっと降りて見たいものを見たりしている。その県に一泊した所もある。九州,沖縄は全県宿泊し,仕事をした県もある。
(A)は当たり前の地図で北海道から沖縄まで示してあり,平野は緑,山地は茶色。富士山とアルプス山脈(南,中央,北)は濃い褐色だ。日本は平野が国土の3割と聞いているが,緑色を見るとそれが良く分かる。東から西へ斜めに列島は位置しているので,夏は北海道では3時に夜が明け,九州は5時半頃明けるというのがよく分かる。夜明けが2時間は違う。そのかわり日暮れが九州では東北地方より1時間は遅くなる。地球が東の方へ自転していることを考えると,当然の現象なのだ。(A)地図の大きさは縦113cm,横84cmだ。
宿泊した県は,医局に入局し,先輩と同級生とで所属する学会の全国学会に参加した時が多い。
教授からのお土産
後にも先にも,こんなことは初めてにして終わりだ。内科へ入局させてもらい2年目,全国学会が徳島市で開かれた。私達同期生4人は,鹿児島駅を夜出発した。中国地方のある港から船で四国の高松に着き,そこから汽車で徳島市へ向かうのだ。
汽車が中国地方へ入った頃だったろうか「お医者さんはおられませんか」と車内放送があった。駆け出しの医師4人は顔を見合わせたが一応行って診ることにした。小学2年生ぐらいの男の子が40℃の熱を出してぐったりしている。「スプーンとライトを持ってきて」と車掌に頼み,のどを見た。扁桃が大きく真赤に腫れている。長びくと腎臓を悪くするだろう。「途中下車させて治療を受けさせた方がよい」と4人の考えは一致し,次の駅で降ろしてもらうように車掌に頼んだ。後日,4人に携帯用の目覚まし時計が国鉄から送ってきた。
学会の第1日目が午後3時頃終わった。私は1人ぶらりと街へ出た。道を歩くと右手に200mぐらいの丘があり,ケーブルカーが取り付けてある。上に公園か博物館でもあるのだろうかと,ケーブルカーに乗った。頂上近くが広場になっていて徳島市内がほとんど見渡せる。女性が1人立っていた。近付いてみると医局助手の丸田さんだ。私が習っている胃カメラ室にも女性助手は2人いるが,丸田さんは教授・助教授のお世話をなさる方だ。丸田さんは新人の私の名前や顔などご存じないだろうが,この学会に参加してるのだから自分の内科の医員とは思われただろう。「いい眺めですね」など短い会話を交わしていると,1人の紳士が上って来られた。
何と佐藤教授だ。3人でしばらく徳山市街,紀伊水道,伊勢半島を眺望し下へ降りた。降りた所へ海産物販売の店が並んでいる。干したワカメが美味そうだ。その時,佐藤教授がワカメ入りの袋を2個求められ,丸田さんと私に渡して下さった。
教授からお土産をいただくなんて考えてもいない私は恐縮するやら嬉しいやらで,佐藤教室に入局して良かったと思い,教授の期待にそえる医師にならなければと決意を新たにした。
地図
地図は眺めるだけでも楽しいものだ。戦後間もない私達には地図は売っていなかった。30年代高校へ入学した妹達になって,やっと地図が出はじめた。
ところで,日米戦争中は,天気予報の放送は全くしなかったそうだ。敵は日本の天候状況を知って爆撃機を送り出すからだ。天候が良ければ航空写真で撮った目標を正確に捉えられる。航空写真は精密な地図と同じ役割を果たす。
ある少年との出会い
弟が富山市に住んでもう30年ぐらい経つ。富山は遠い。なかなか行く気にならなかったが,隣の砺波市がチューリップで有名なことを知っていたので,5月の連休,初めて出掛けた。チューリップはオランダが有名だ。1回目,2回目航空機で行った。福岡空港での乗りかえ,羽田空港での乗りかえ,飛んでいる時間は短いが,荷物を預けたり,ボディーチェックを受けたりで結構時間を取る。昨年の5月は,新幹線が新大阪まで繋がったので列車にした。新大阪から富山へは新幹線は2年後の完成と聞いたので富山駅まで7時間かかったが,飛行機より座席も広く,トイレへも通路に不自由なく行ける。荷物を預ける必要がない。
前日の電話で弟は「北口で待っている」と言った。午後4時無事富山駅へ着いた。私はプラットホームから階段を上り架橋へ上った。目の前が北口へ出る階段だ。ところが何かの工事中で入り口はテントで塞がれている。南口へ出て,北口へ行く道を駅員に聞くしかない。
私は南口の改札口で若い女子駅員に切符を渡し,「北口はどちらですか」とたずねた。彼女は右腕を真横に伸ばし,「こちらです」と言った。南へ出たのだから,私の方向感覚ではそちらは東だ。途中北口へ通じる道があるのだろうと思い駅舎を出て東へ歩き始めた。ところが北口へ行く道があると思う私の左側は6mの土手で,上をレールが並んでいる。50m歩いたら店3軒が並んでいて,道は右へ曲がり市街地へ行くようだ。「迷ったら原点へ返れ」と言う。駅舎へ戻った。公衆電話を探し,弟が家を出掛けたか確かめようと弟の家の電話番号をみながらボタンを押すが,4度〜5度かけても,「この電話は使われていません」と電話が答える。
4時に着いてもう5時になった。雪国は薄暗くなってくる。弟の家までタクシーで行く金が残っているか,近くの宿に泊まる宿代があるか。弟の出迎えが唯一の頼りだからいい思いが浮かばない。その時私の左側に誰か立った。「僕がかけてみましょう」とその男性がかけてくれた。すぐに繋がった。私が心細くなって慌てているのだ。
「どうしたいのですか」とその男ひとが声をかけてくれた。背が高い少年だ。「弟が北口で待っているので北口へ行きたいのです。駅員が教えてくれたが,その道が見つからないのです」
「僕が案内しましょう。着いてきてください」何と駅舎のすぐ南側に地下へ下る階段があり,十段も降りてUターン状の地下道を歩くと,北へ延びて,150mぐらいで北口の広場に出た。弟がそこに立っていた。「2時間待ったよ」と言う。自家用車が3台ぐらい停まっているだけ。鹿児島中央駅西広場とおおちがいで閑散としている。その少年は「中学2年生だ」と言った。私は持っていた名刺を一枚渡し「3週間後には鹿児島に帰っているから,あなたの名前,住所を書いて,富山駅で会った者ですと付け加えておいてください」と話して別れた。こうして,無事弟の車で家へ辿りつき,温かい飲み物で疲れをとった。
温泉と水と
立山連峰はすっぽりと雪に包まれている。気にしていた平地の道路は積雪がなく,富山市在中,連峰麓の温泉に連れていってもらった。家庭の水道水も立山連峰の谷川の清流を少し消毒しただけで,安全に,おいしく飲める。甲突川の水を消毒したのを飲んでる団地の私は,水のおいしさの大きな違いを味わった。最近は,「生駒(えびの)の水」「六甲の水」など,飲むものは買っている。
例の少年とは約束どおり連絡がとれ,12月にはゆっくりと会ってきた。
「青山君,君はこれから高校・大学・就職・結婚等で富山市を離れることがあるだろう。私はもう武岡から動かない。70歳という年の差があるが,生涯の心の友として付き合って欲しい。住所が変わったらハガキ一枚ください。君のような優しく親切な中学生が増える事を願っている。そしたら『いじめ』もなくなり自殺する中学生など生じる事は無い」私はそんなことを新装になった富山駅の喫茶店でコーヒーを飲みながら青山君に話した。私の弟もそうだというように頷いていた。
後日,私は弟に富山市で発刊される新聞名を教えてもらい,『西北陸新聞』に,この心優しい少年の案内について読者の広場宛てに投稿した。
5月末,西北陸新聞が一部送ってきた。私の投稿を採用してくれていた。何人の目に留まるか分からないが,1人でも親切な若者が増えたら嬉しいなと思った。
平成25年,心に残る旅をさせてもらった。今年もどこかの温泉宿で心温まる方とめぐり会って残された40年の人生を美しく生きる術を会得したいものだ。平和な心で過ごせるのが望みだ。
会員の皆様の今年のご多幸をお祈りしております。

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