富山丸爆沈の悲劇
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写真1 富山丸全景
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写真2 富山丸慰霊碑
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写真3 全員の名前が記名された碑
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今回徳之島に行く機会があった。まず戦時中富山丸の爆沈の事を思い出す。7,300トンの富山丸(写真1)は戦時中の輸送船として軍に徴用されていた。今回沖縄戦線の応援に出撃するために,兵員および軍用資材特に大量のガソリンを満載して鹿児島を出発することになっていた。昭和20年6月27日,鹿児島を出港する時から敵の潜水艦が出没しているとの情報はあったのだが沖縄の戦況が逼迫しているため,無理に錨を上げて沖縄に向かうことになったという。その数日後6月29日,船が徳之島亀徳沖のリーフに差し掛かった時敵潜水艦に魚雷攻撃され,特に機関室に命中した2発目が致命傷となってその爆発音はすさまじく徳之島全島に鳴り響き国民学校の窓ガラスが揺れたという。同時に積んであったドラム缶5,000本のガソリンが次々に周辺に浮上して爆発し周囲は火の海と化し,4,500人の将兵が水没しただけでなく甚大な火傷被害を蒙ったのである。徳之島に在留していた陸軍船舶工兵隊は海が丁度引き潮のため,持ち船を出して救助に向かうことができなかったので周辺の漁船,はしけなどを出して救助に向かったが次々にドラム缶が爆発し熱風で近寄る事ができなかった。せっかく近づいて負傷者を引き上げようとしても火傷で爛れた皮膚が剥がれて滑り落ち船まで持ち上げられなかったそうだ。
海岸に揚陸した遺体は山をなし,国防婦人会,役場職員,島民全力で救助した3,000人の諸兵の焼死遺体はまるで巨大な鰹節を並べたようだったという。治療薬などは全く無くて豚油,チンク油を塗って芭蕉の葉で巻くだけで実に悲惨極まりない状況だった。
しかもこれらの島民挙げての大活動が軍の防諜上重大な秘密として憲兵から厳重に口止めされて詳細は戦後まで全く明かされなかった。惨劇の現場,亀徳港の「なごみの岬」には立派な慰霊碑が建っており(写真2,3)戦死者全員の名前が刻み込まれている。毎年6月29日の命日には全国の特に四国から多数のご遺族が集まってしめやかに慰霊祭が執り行われていた。しかしご遺族の皆さんが老齢になられたため近年慰霊祭は中止になったそうだ。
私がこの事件に特に関心を持ったのは次の経緯からである。
この部隊は沖縄遠征を前にして鹿児島の照國神社周辺に集合していた。指揮官の一人として私の遠縁に当たる人がいて,ある夜私達は神社前の旅館に招待され夕食を一緒にした。その翌朝6月27日に私共の知らぬ間に部隊は鹿児島を出港したのだった。
丁度その日我々は沖小島まで短艇訓練をしていたが,その時刻に富山丸が我々の脇を過ぎて行った。私は習いたての下手な手旗信号で「安全なる航海を祈る」と送信した。すると船から「ありがとう」と返信してきたのである。私の英語が外国人に通じたような気分になって嬉しかった事を鮮明に思い出す。それにその船には昨夜夕食を共にした親戚が指揮官の一人として乗船していたことは戦後しばらくの間全く知らなかった。残念ながらその船が徳之島の沖合いで撃沈されたのである。それを知った私は大変ショックだった。戦後亀津にも何回か行ったが,それを知ってからあの慰霊碑を見ると誠に感慨無量で,ただ一途に多くの英霊の成仏を祈るのみである。
疎開児童たちの悲劇
亀徳港の近く「なごみの岬」にある富山丸の慰霊碑の近くに武州丸の碑が並んでいる。戦時中,富山丸事件の数カ月後,徳之島の学童を鹿児島に疎開させようと嫌がる子どもを無理に乗船させたのだが,潜水艦に撃沈されてほとんど全員水死したのである。
また同じ頃,那覇港から学童疎開で内地に向かっていた対馬丸も同じ海域で米軍潜水艦にやられほとんど全員水死したのである。このような悲惨な事実も戦時中故,軍の機密として戦後まで知らされなかった。非常に残念なことだった。
私は今でも空路,南の海を飛ぶときは特攻隊として沖縄に向かった若き人々の心境を思い,南の海を航海するたびに幾多の船舶や将兵が水漬く屍となり,特に児童たちが沈められた歴史を偲び,多くの犠牲者の御霊安かれと祈っている。

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