=== 随筆・その他 ===

城 山 と 保  直 次 氏 の 事


中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤

 私は保 直次氏(以下T氏)について思い出すたびに,何かしら,ほのぼのとした感じになる。大きな事業をしていながら威張ったところがない。公平無私にして人を騙したりすることが無い。温かみを持った人だった。財産の社会還元を主義としており,一方では文化的に博多郊外に著名人の彫刻を網羅した大きな公園「玄海彫刻の岬・恋の浦」を建設していた。

郷土愛
 徳之島を徳の満つる島と言って特に郷里を愛しており祖先崇拝の心も厚く,柔道家の徳三宝,横綱の朝潮,書家の川上南溟,世界一の長寿者 泉 重千代など同郷の人を誇りに思っていた。特に大島は台風銀座と呼ばれそのたびに農家は「逆境作人」と言われていたがT氏は島民に常に暴風に負けるなと励ましていた。

病院にて
T氏が私の所に永らく通院された頃がある。とても忙しい人なのに病院に来た時はあの大きな体でどっしりとソファーに座り込んで多くの人々と一緒に黙然としていつまでも待っておられた。見かねて早めに呼び込むものだった。診察の後にはよくとんでもない冗談を言ったりして笑わせておられた。眼鏡の奥の優しい眼を細めて笑う,人を和ませる姿を懐かしく思い出す。

創業時代
敗戦直後,T氏ご夫婦が高見馬場交差点のあたりで商売をしておられたのが丁度私の家の近くだったので時に見掛けるものだった。間もなく天文館で飲食店キャンデーストアーやパチンコ店を開店された。何しろ敗戦直後の混乱の時代だ。暴力団,チンピラが跋扈(ばっこ)して世の中は非常に不安定な頃だった。彼があの大きな体と大きな声,大きな眼で「無礼者」と怒鳴りつけて退散させていたという。それこそ故郷井之川根性(負けず嫌い)の人だった。その後,夫婦の努力で次第に事業が大きくなり実業家の列に入るようになって鹿児島でも有数な財界の中心人物となってきた。
はじめ城山の頂上までロープウエイを掛けようと言い出したことがあったが,照國神社を見下ろすことになる。不敬だと反対が出ていつの間にか消えてしまった。無理をしない人だった。

城山の着想
鹿児島市の桜島と錦江湾の風景がナポリに似ている(東洋のナポリ)ということでT氏は当時の平瀬鹿児島市長らと鹿児島財界人の一員として国際交流事業の為に両都市間の姉妹都市盟約を結びに行ったことがある。その記念にナポリ市はある通りに鹿児島通りと命名した。鹿児島市としても呼応して鹿児島市内の中心部の大通りをナポリ通りと命名したのだった。しかし後日私がベスビオ火山に旅行した時ナポリの街に立ち寄ったが,その時ナポリの鹿児島通りがはるかにせまい坂道で鹿児島のナポリ通りと比べて見劣りがしているのを見て大いにガッカリしたものだ。
しかしT氏はその時ナポリの高台に立って眼下の地中海の広がりと遠くのベスビオ火山を見渡して錦江湾および桜島と比較し,「よしっ!このような景勝の地にホテルを建設しよう」と思い立って,城山に着目された。城山が神聖化されていた頃だったので城山にホテルとは何事だと反対されたこともあった。
いざ工事が始まってみるとまず周囲の土塁の一部を開削することになった。しかしその土塁は約500年前南北両朝の紛争の頃,上山氏が山城として築いた歴史的なものだった。その後,麓に島津氏により今の鶴丸城が建設されたという経歴がある。確かに大事な所だった。城山の森全体は今でも天然記念物に指定されている。

ドンの広場
現地は私たちが小学生のころによくこの土塁の広場に遠足に行ったのだが子ども同士で森の茂みで探険遊びをするものだった。毎日正午になるとそこの広場に据え付けられた大砲から出るドーンという大きな音で城下市民に昼食の時間を知らせていた。子どもたちは(ドンがなったピーがなったマンマ喰(た)もろう)と囃すものだった。この大砲は日清戦争の戦利品だったが戦時中軍に供出された。T氏は度重なる苦労を乗り越えて最初は小さなホテルと子ども相手の楽しい遊園地を造り,次第に規模を大きくしてとうとう現在の大規模ホテルを完成させたのである。
一方城山の後方,新照院からホテルに通ずる私道を造成した。あのあたりは以前は日豊線に沿った広い墓地だった。工事の時に掘り出された人骨が散乱して気味悪いものだった。現在は綺麗に舗装された立派な自動車道(市道)になっている。同じ頃彼は鹿児島以外にも関西,博多方面にホテルを広げたこともあった。

ホテルの意味
私は今まで国内をはじめ,欧米各地のホテルに多く宿泊してきたが,城山観光ホテルは内容も非常に立派で国内外の施設に劣ることは無い。天皇陛下や重要人物の常宿にもなっている。特にこのホテルのスカイラウンジから錦江湾,桜島を眺めた景観は昼夜を問わず日本を含めて断然世界に誇り得るものだと考える。私は来客をよくここに招待している。またホテル内の天然温泉「さつま乃湯」露天風呂からの景観はナポリや,ベスビオ等とも比較にならないくらい雄大で美しい。まずよそにはそんな設備も無い。まさに城山あっての鹿児島,鹿児島のシンボルとなっている。T氏がここに目をつけたのは大層な見識だった。はじめ地元の人はホテル造成によい気持ちはしなかったのだが,このホテルのお陰で現在鹿児島の観光事業および経済発展に寄与された功績は非常に大きい。
一昨年T氏は亡くなられたが彼を慕う人は多く,徳之島町名誉町民の称号を与えられ,国からは紺綬褒章も受章している。有志の発意で1年経たぬ短期間のうちに多額の基金も集まり,T氏の信念を刻んだ立派な記念碑が彼が懐かしみ慈しんでやまない景勝の地に建てられた(写真1,2)。太平洋は見渡す限り広く,沖合いの珊瑚礁に砕ける白波は力強く,気候は温暖で暖かく,最後まで彼らしい優しさと望郷の念を偲ばせている。
T氏の生前の信念「夢を見,夢を追い,夢を喰う」の三行が大きく彫られている。私は彼の人生を偲び大きな感動を覚えた。その丘に「朝潮」の銅像(写真3)とコメディアン八波むと志の碑が建っているのもT氏の友情を思わせて懐かしい。石碑の周りには島内で彼が生来馴染んでいたシャリンバイ,ソテツ,ハマヒサカキなどが具合よく植えられて南国情緒を漂わせていた。将来この地の名所になるだろう。
次に私が感じたのは同じ徳之島の出身で,しかも生家も隣町同士でありながら一方は病院問題,医政問題に向けた人物がいる。一方は鹿児島の観光に尽くした財界人である。郷里を同じくする双方の人生が全く両極端なのが不思議に思える。私は両者の人格と信念の大きな違いを城山を眺めながら,つくづく考えている。

写真1 保 直次氏記念碑(正面)
周囲にはソテツなどが植えられている

写真3 第46代横綱朝潮太郎銅像


写真2 (背面)
遠くに珊瑚礁の白波が見える



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