暦に,今年平成26年は「甲きのえ午うま」の年と記載してある。昔からよく聞く「干え支と」であって別に違和感は感じないが,何となく裏に運勢が貼り付けられているような印象がちらついて,反射的に「丙ひのえ午うま」の女・・が脳裏をよぎる。昨年末に放映されたテレビ番組「あさきゆめみし」に登場した八百屋お七,彼女の生まれ年(1666)が「丙ひのえ午うま」であったことから,天和2年12月の江戸の大火以後,この年回りの女性は気性が激しく,大火(大禍)を招くという迷信を生んだ。そして江戸時代以降,この「丙ひのえ午うま」年生まれの女性は嫁としての縁が失われ,この悪弊は全くの迷信でありながら根強く本邦に定着した。
古来,人々は天体の運行を基にして方位を定め,暦を作って農耕や祭祀など日常生活のスケジュールを立てていた。先述した「干え支と」というのは,方位十二支を基にし,これに序列の十干と,木火土金水の五行を配置して成り立った暦の一つで,その起源は,中国の殷後期(BC1300〜BC1203)に考案された十干・十二支法である。10と12から成る60通りの組み合わせで,はじめ年号を表し,のちに年月日も表すようになった。十二支とは,子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の12の方位,十干とは甲乙丙丁戊己庚辛壬発の10の序列のことで,昔は学業成績も甲乙丙丁で評価され,丁(50点以下)が2つ以上あると落第,今でいう留年だったことを記憶している。この10通りの序列は指の本数を基にした十進法に準拠している。十二支の12という基本概念は一年間の月の満ち欠けの回数から得られたもので,西の空にわずかに残る下弦の月,やがて消える日(朔)を起点とし,翌日現れるかすかな上弦の月から次第に輝きを増して満月(望)に至り,再び欠けはじめて消えるまでの周期を「ひと月」とし,この周期が一年間に12回繰り返されることに由来している。しかし,月の地球に対する公転速度は,厳密には一日に約50分程度の遅れを生ずるため,一年間をきっちり12カ月としてゆくと次第に誤差を生ずることに気付いた。このことは西洋でも同じことで,さらに一年間を365日とすることにも疑問が持たれていた。それは太陽に対する地球の公転速度が365日よりも若干長いのではないか,ということであった。逆に説明すると,日付けが早く来てしまう,つまり,春分の祭祀をする日付けが来ても,実際の昼夜同じ長さの日はずっと後に来ることで確信された。この事実からローマのユリウス皇帝,ついでグレゴリウス皇帝によって布告された暦は,四年に一度の閏日,ならびに28日,30日,31日などを配置し調整されて現在に至っている。
十二支にそれぞれ動物の名が当てられているが,子を真夜中に配置した経緯は多分,一日の始まりをどこにするかであったと思える。当然,日の出をと考えた。しかし季節によってそれがまちまちであることから,やがて日の出と日没の真ん中が一日の中心であることに気付き,その反対側を一日の始まりとすれば季節による誤差もないことから,まず,真南に午を配置してこの時刻を正午と呼称することにし,真北に子を配置して一日の始まりとした。また子を方位の北に当てたのは多分,春分の日の出を真東として反時計まわりに北の方角に配置したか,あるいは恒星のなかでひときわ目立った北極星が真北に位置していることによったものであろう。この十二支に動物の名を当てることは本邦のみならず,東南アジア諸国およびロシアにまで普及していることは興味深い。
この十干と十二支を組み合わせること,たとえば甲と子の組み合わせ甲子,乙丑,丙寅・・・は簡単で便利であるが,10に対して12の組み合わせでは最後に2つのズレ,つまり十二支の最後の戌と亥が余ってしまう。この2つに十干の甲乙を詰めて組み合わせることを順次続けていくと,ちょうど60番目の組み合わせが終わったあとにズレが戻って,61番目に最初の甲子が再びめぐって来て初めに還る。このことから,暦が元に還る,すなわち還暦の意ならびに行事が定着したことは今更説明の必要もないが,「えと」の英訳を見るとthe sexagenary cycleとしてある。60歳周期ということは人間の寿命を120年と見て,その折り返し時点,と考えたのかもしれない。つまり還暦とは,そのあとの余生を,天からの贈り物として享受すべし…ということかも知れない。また,還暦ならずとも12年おきにめぐってくる同じ「えと」子丑寅・・・の男女を年男,年女といって,その年の新年の儀式や,節分の豆まきの行事を取り仕切る祝い役に当てることも,年ごとの一里塚を越えて来れたことへの感謝の意をこめた奉仕として定着している。
後年,春秋・戦国時代(BC770〜BC220)に至って五行説の成立に伴い,十干が五行に配列されて,甲乙を木,丙丁を火,戊己を土,庚辛を金,壬発を水にまとめられたので,本邦では五行の中の2つを兄(え)と弟(と)に分け,十二支との間に入れて読む,たとえば甲子の読み方を「木きの兄えの子ね」とし,乙丑は「木きの弟との丑うし」として,以下同様,丙午の読みは「火ひの兄えの午うま」など,現在使われている本邦独特の呼び方が定着した。この兄を「え」,弟を「と」としたことが干支を「えと」と呼ぶようになった経緯である。
さて午うまの実体,動物のウマの起源については,発掘される化石に頼るしかないのだが,人類が地球上に現れるずっと以前から棲息していたらしい。アメリカ合衆国ミシシッピー川流域で発掘された一連の骨の化石やその他の証拠によって,ウマの進化の動物学的検討が可能になったが,それでもなお原産地については明らかではない。おそらく現在のウマEquus caballus [哺乳類 奇蹄目 ウマ科] に属する一群は,その分布からみてアジア系統のものがアジア中央北部から,第一は東方に向かってシナ,蒙古型を造った。第二は西方に向かいヨーロッパ全域に分布し,第三のそして最も重要な流れは西南方に向かって小アジアに入り,近隣のイラン(ペルシャ),アラビアに分布し,さらに北アフリカ,地中海北岸に広がり,ここから現在の改良種ができたと考える説が最も支持されている。ウマの体型や大きさなどは,その目的によって随分異なり,武装した騎士の乗用馬などは,ベルギーやオランダで重量に耐えかつ速く走れるように大型に改良された。ウマの知能に関しては,非常にすぐれた感覚をもっており,記憶力もよい。また一度習慣化してしまうとなかなか元に戻らないという性向がある。自分のすみかに帰る本能,危険を予知する本能,砂漠で水をみつける本能,遠くからでも自分の敵と味方とを識別する本能など特異的な発達がみられる。ウマの年齢は,生まれた年の一月一日から起算し,当歳馬,二歳馬,三歳馬と表現する。すぐれた走行性を持つサラブレッド種はアラブ系のウマを改良した競馬用の種類で,現在もっとも高い値段で取り引きされている。ウマは総じて過酷な気候条件に耐えうる力や,人類の使用目的に適した能力にすぐれているため,広い地域に分布するようになった。
幼い頃,地方都市に住んでいたためか,ウマはそこいらにいくらでもいた。両親の実家に帰るとウマ2頭にウシ2頭ぐらいはどこの農家にも飼われていた。子供心に面白かったのは,放れウマといって飼いウマが突然暴走して逃げる光景で,遠くから眺める分には痛快で滑稽だった。ウマはかねての鬱憤を晴らしたかったのか,飼い主の油断を巧みに見抜き,厩を抜け出して思う存分走るのだが,後ろから大声あげてウマを呼び戻そうとするお百姓,追いつけるわけがないので,余計可笑しかったが,大抵はほんの数分間でウマはおとなしく飼い主に従っていた。小学校では前額部に半月形の古傷を残している男の子が,一学年に一人ぐらいは必ずいた。厩に忍び寄って後ろからウマのしっぽの毛を抜き取ろうという魂胆を見抜かれて後ろ足で一撃を食らい,馬蹄形の傷痕を残したものであるが,ウマのしっぽの毛で一体何をするかというと,毛の端っこに小さな輪を結んで造り,他端をそこに通して簡単な罠をこしらえ,麦畑の畦に造られた雲雀(ひばり)の巣に仕掛けて生け捕りにしようという算段なのであるが,ウマもさるもの,頃合いを見計らって後ろ脚で蹴るのだが,決まって額に当てる業には恐れ入った。傷痕には頭髪が生えず,一生ハゲを残したであろうが,今思えば素朴な遊びに興じられた昔がなつかしい。また駅には馬車の2,3台は必ずいて乗客を待っていた。中でも有名なのは隼人駅の乗り合い馬車だった。これで鹿児島神宮まで乗ったはいいが,走りながら勢いよく糞を放出したのには驚いた。おまけに大きな音でガスまで食らったが,草食のせいか臭くなかったし,乗り合わせていたほかの人たちも爆笑して終わったのは,ウマと人とが親しく暮らしていた証しであろう。ウイーンなど,ヨーロッパの古都で依然として古式な馬車が街中を走っている風景はむしろ微笑ましく,ウマとその街の歴史を物語っているようである。
外国のウマ事情には詳しくないが,現在,日本国内のウマの数は驚くほど減少しつつある。その大きな要因は第二次世界大戦で多くのウマを失ったことと,時代の要請がウマから自動車に代わってしまったことである。戦争勃発直前の昭和11年ごろ,本邦には農耕,駈走,競馬あるいは儀式などの輓馬用に適した改良種の優秀馬143万頭がいたが,最も悲しいことは戦地に送られたウマたちである。戦火に倒れ,あるいは現地に置き去りにされたウマの総数38万頭が日本に帰れなかった。戦後も激減し続けて1970年には14万頭にまで落ち込んでいる。その後の回復状態についての詳しいデータは定かではないが,2000年頃の大まかな分布と数は,一位が北海道の99,000頭で二位が鹿児島県の9,000頭,それに東北地方の4,000頭がこれに続いている。時代の変遷と需要の減少でウマの生産が減ってきたことは仕方ないにしても,何も知らずに故郷を離れ,戦争の犠牲となり,中国大陸やビルマの山奥などに散ったウマたち,置きざりにされたウマがどんな余生を送ったかを思うとき,胸の詰まる想いがして哀惜の念に堪えない。
以上

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