=== 新春随筆 ===

念 願 の 奥 穂 高 岳 登 頂
〜45年前の夢を追って〜



鹿児島シティエフエム 代表取締役社長
                   米村 秀司
 
 台風24号の現在地は島根県松江市の北。予報円の進路では北アルプスはすっぽり入っている。
 「今のうちに降りた方が良い」
 2013年10月9日午前5時半,リーダーの小笠原弦氏が静かに呟くとKTS社友会の今村孝夫氏,佐伯惟宏氏,そしてアルプス初挑戦の私の3人は無言で下山の準備に取り掛かった。
 標高3,000メートル。穂高岳山荘の外は雨。加えて台風の影響と思われる風がビュービューと音をたてている。
 前日に奥穂高岳に登頂したKTSOBの「北アルプス登山チーム」は風雨の中,穂高山荘から涸沢(からさわ)へ下山を始めた。途中,初心者には極めて厳しい「ザイテングラート」と呼ばれる難所があり,岩場は雨で滑りやすくなっていた。
 初心者の私には細心の注意が求められた。

アルプスへの誘い
 「もし,良ければ10月に一緒に北アルプスへ行きませんか? 日程は10月7日に新宿07:30発の高速バスさわやか信州号で上高地に入ります。この時期は,山岳紅葉日本一と言われる標高2,300mの涸沢の紅葉を見ることができます。穂高岳はここから約2時間で登れます。どうぞ,私たちとの北アルプス山行を検討してみて下さい」
 かつての職場(KTS鹿児島テレビ)の先輩小笠原 弦氏からメールを頂いたのは2013年2月。小笠原氏はKTS退職後,国内外の山を登っている古木圭介氏から山の魅力を知り,登山を始めた。これまでに北アルプスの奥穂高岳,北穂高岳,槍ヶ岳など毎年のように北アルプスを登攀している。同行する今村孝夫氏,佐伯惟宏氏もこれまでに3回の北アルプス登攀経験者。
 「アルプスへの誘い」に対して私は「体力が持つか?登攀技術が備わっているか?仕事は大丈夫か?休みは取れるか?」など迷いに迷う日々が続いた。
 そしてついに内心で決断し,ひそかにトレーニングを始めた。
 トレーニングは韓国岳を中心に行い,甑岳,白鳥山などへの縦走もおこなった。
 自宅から早朝,えびの高原駐車場まで車を走らせて午前9時に登山開始。
 「新しく購入した靴の履き具合は良いか?」「ストックの長さはどれぐらいが適当か?」「何リットルの水分補給が必要か?」など毎回の登山にはテーマを設けて韓国岳へ登った。
 韓国岳でのトレーニングは延べ10回を超えたほか,夏の暑い日差しのなか,藺牟田池外輪山での岩場の登攀訓練や湯之元球場の内野スタンド席を利用して階段の上り,下り訓練をおこない足腰を鍛えた。
 そして,ある程度体力に自信を持ち始めた8月下旬,メールを頂いた小笠原氏に返信した。
 「北アルプスに行きます。奥穂高岳に挑戦します」

45年振りの上高地
 私が初めて上高地を訪れたのは今から45年前。同志社大学2年の時で,当時の写真が古いアルバムにある。上高地から梓川沿いに上流へ1時間のところにある「穂高奥宮」の前で撮った45年前の自分。明神池周辺でテントを張り,満天の星を眺めた。私は青春時代の懐かしい白黒写真を見ながら,あれから45年後に登高する穂高連峰に想いを重ねた。
 そして2013年10月6日午前7時,新宿発のあずさ1号に乗車し松本へ向かった。
 上高地のバスターミナルは河童橋まで歩いて5分のところにあった。1975年(昭和50年)から車の乗り入れ規制が始まり,マイカーは井上靖の「氷壁」にもたびたび登場する沢渡(さわんど)までしか乗り入れできない。
 年間120万人が訪れる上高地は,現在「CAR−LESS リゾート上高地」として完全に定着している。加えて上高地5ルールを設け@採らないA与えないB持ち込まないC捨てないD踏み込まない(歩道を外れて歩かない)を観光客に徹底させている。
 45年ぶりに訪れた河童橋では多くの観光客が穂高連峰をバックに写真を撮っていた。芥川龍之介が精神障害者の語り口で1927年(昭和2年)に書いた「河童」の中で登場する「S先生」は斎藤茂吉に違いなく,二人は昭和初期にここを訪れた。
 「河童」は鹿児島出身のジャーナリスト山本実彦が創刊した雑誌「改造」に発表され,芥川は「河童」を発表して5カ月後に自殺する。
 一方,山本実彦は雑誌「改造」を通じて大正から昭和にかけて芥川龍之介の数々の作品を紹介した。私は薩摩川内市の川内まごころ文学館に展示されている芥川龍之介が山本実彦へ送った手紙を思い出しながら河童橋を渡り涸沢へ向かった。

日本アルプスの歴史と近代登山
 明治の初め頃まで登山は修行のための信仰登山や病人救済のための採薬登山だった。富士山,白山,立山は日本の三霊山と呼ばれ修行僧が信仰を高めるために登山していた。九州では福岡県の英彦山に修行僧が多く集まっていた。鹿児島県ではいちき串木野市の冠嶽が,代表的な信仰登山の山といえる。徐福伝説は今も語り継がれている。
 長野県や岐阜県などにまたがる日本アルプスは明治中頃まで,全くの未知の山で,これを開発したのは英国人宣教師で登山家でもあったウオルター・ウエストンだった。W・ウエストンは1888年(明治21年)に初来日し慶応義塾の教師になった後,英国に帰り「日本アルプスの登山と探検」を出版。その後2回にわたって来日し,1911年(明治44年)の3回目の来日で,槍ヶ岳などの北アルプスを登攀した。1912年(大正元年)8月24日と1913年(大正2年)8月29日,上高地に住む上条嘉門次の案内で奥穂高岳に登っている。今からちょうど100年前だ。この時の様子は東洋文庫の「日本アルプス登攀日記」の中で詳しく紹介されている。
 この本は大正初期の登山ドキュメントとして興味深い。
 1905年(明治38年)に創設された日本山岳会は近代登山を日本に普及させたとしてW・ウエストンを名誉会員に推挙した。
 ところで,W・ウエストンは1890年(明治23年)11月6日,大分県と宮崎県にまたがる祖母山に登った記録が残されており霧島連山の韓国岳にもこの時に登ったとされているが詳しい日時はわからない。宮崎県高千穂町では毎年秋に,ウエストン祭が開かれ,今年(2013年)は11月2日に宮崎県の山岳関係者ら80人が集まった。私は前月に上高地から奥穂高岳に登ったという単純な動機で祭りに参加し,末席でウエストンを顕彰した。
 大正時代に入り登山界には学生が進出。スポーツとしての近代登山が本格的に広まった。
 先陣を切ったのは慶応,三高,一高,北大,学習院,同志社のグループだった。
 このうち慶応は槇 有恒がスイスのアイガー(3,970m)東山稜初登頂を1921年(大正10年)9月に成功させたほか,学習院は1926年(大正15年)8月から9月にかけて秩父宮殿下がスイスのマッターホルンに登頂した。登山に造詣が深かった秩父宮殿下を偲んで日本山岳会は秩父宮山岳賞を1998年(平成10年)に設け,優秀な登山家を表彰している。

涸沢の紅葉
 明神池の近くに穂高奥宮と書かれた大きな道標がある。45年前にこの道標をバックに撮った写真と同じ場所で写真撮影した後,私は涸沢へ向かった。
 途中,徳本峠への道が分岐している。徳本峠はかつての上高地や穂高へのメインルートで「氷壁」や「日本アルプス登攀日記」などにも登場する峠道だ。この道には穂高連峰を眺望する絶好のポイントがあり,一度は訪れてみたいところだ。
 本谷橋を渡り本格的な登山道を2時間。周囲のどこを見てもナナカマドなどが真っ赤に紅葉している。遠くには穂高連峰が見え「絵葉書の中に自分がいるのでは・・・」と錯覚するような景色に見とれながら,日本一の山岳紅葉のスポット,涸沢に到着した。
 標高2,300メートルの涸沢はカール(円形の窪んだところ)の底にあり日本を代表する高山テント場にもなっている。標高1,700メートルの韓国岳よりはるかに高い。赤,青,黄色など色とりどりのテントが張られている近くに山小屋・涸沢ヒュッテがある。涸沢ヒュッテにはアルプスの紅葉を見ようと全国から登山者やグリーンツーリズムのグループが訪れていた。上高地から約6時間かかるが,ここまでは大きな難所は無い。
 宿泊者が多いため「一つのフトンに3人寝る」という山小屋の夜を過ごすと,早朝,「アルペングリューエン」という太陽の光で山肌が黄金色に輝く現象を初めてみた。
 登山用語辞典によると雲が太陽光で赤く染まるのは「モルゲンロート」だが,この日は雲はなく山肌が輝いていたので「アルペングリューエン(アルプスの栄光)」だと思う。
 多くの登山者は穂高連峰に輝く「アルペングリューエン」にシャッターを切った後,下山を開始したが,私が目指す奥穂高岳はここから900m上にそびえている。そして途中,ザイテングラートと呼ばれる初心者には危険な難所が待ち受けている。
 私は午前6時半,奥穂高岳の直下にある穂高岳山荘を目指して出発した。

標高3,000メートルの穂高岳山荘
45年前の筆者

2013年10月の筆者

穂高岳山荘に着いたKTS社友会チーム

奥穂高岳で筆者

標高3,000メートルから雨中の下山


 涸沢から広大な岩稜地帯を1時間ぐらい登るとザイテングラート取付点に辿り着く。ザイテングラートはドイツ語で「支稜」という意味。岩稜地帯の急登が連続して約1時間半以上続く。私にとってここが最大の試練の場であることは出発前から聞いていた。ガイドブックを見ても「危険」のマークが記され「下山時は特に注意」や「心して登ろう」などと注意を呼び掛けている。
 私はゆっくりと2時間近くかけてザイテングラートを通過した。
 涸沢からは4時間かけた登高だった。
 穂高岳山荘は奥穂高岳の約200メートル直下にあり,「太陽のテラス」と名付けられた石畳のテラスで小笠原氏,今村氏,佐伯氏の到着を待った。
 3人はこの日,昼前に涸沢で合流して奥穂高岳を目指したが,佐伯氏は前日,北穂高岳に登頂した後の登高だった。
 穂高岳山荘は今年(2013年)山小屋を開いてからちょうど90年で,これまでに3代にわたって山小屋を守っている。
 初代の故今田重太郎氏は奥穂高岳から前穂高岳に続くルートを開拓し,娘の名前にちなんで前穂高岳近くのポイントを「紀美子平」,前穂高岳から岳沢に続く道を「重太郎新道」などと名付けている。現在の主人の今田 恵さんは3代目で28歳。早稲田大学時代の同級生と結婚し山小屋を守る若き岳人だ。
 午後2時前に小笠原氏,今村氏,佐伯氏が到着。早速山小屋の前で記念撮影した後,北アルプスの主峰,標高3,190メートルの奥穂高岳を目指した。

奥穂高岳山頂に立つ
 穂高岳山荘の南側の登り口から奥穂高岳への急登が始まる。いきなり「鎖場」と「梯子」が待ち受ける。ザイテングラートと同じような難所が続き,岩稜地帯を約1時間登ると標高3,190メートルの奥穂高岳に到着した。遠くには槍ヶ岳が三角形の山容で見える。槍ヶ岳の左下方は「槍の肩」と名付けられ,そこには山小屋があると小笠原氏が教えてくれた。南西にはジャンダルム(護衛兵)という険しい稜線が聳えており,初めて見る山容に恐怖感を感じた。山を見て「恐ろしい!」と思ったのは初めてである。
 奥穂高岳の山頂には祠が祭られており,これをバックに「KTS社友会旗」を掲げ記念撮影した。
 夕方からの登頂だったがこの日は天候に恵まれ,北穂高岳,前穂高岳を一望できた。果てしなく空は広がり,穂高の山々は堂々と聳えていた。

待機か下山か? 台風24号接近
 山小屋の朝は早く午前4時ごろには皆起き始めた。外はまだ暗いが雨模様。午前5時から朝食が準備され,すぐに食事を始めた。
 NHKが気象情報で台風の進路予想図を放送していた。穂高岳山荘に宿泊していた登山者は食い入るようにテレビ画面を見つめた。いち早く決断したのはKTS社友会で,リーダーの小笠原氏が「今すぐ下山する」と伝えると今村氏,佐伯氏,そして私は雨具と手袋の着用を始めた。
 難所のザイテングラートは「岩場が濡れているから滑落しないように」という警告に正直なところ,少しひるんでしまったが,ここまで来たのだから「絶対に降りる」という強い意志で奥穂高岳山荘から下山を始めた。
 トップが小笠原氏,続いて初心者の私,今村氏,佐伯氏の順番で雨に濡れた岩稜地帯を歩いた。視界は5メートル前後で一歩づつ足場を確認しながら下へ,下へと進み標高2,300メートルの涸沢までたどり着いた。
 その後,降りしきる雨の中,約6時間歩き続けて下山した。北アルプス奥穂高岳挑戦は無事に終わった。

穂高よさらば
 私には学生時代の忘れられない歌がある。山岳同好会の友人が穂高から帰ってくるたびに酒を飲みながら「穂高よさらば」を高唱していた。

  穂高よさらば また来る日まで
  奥穂に映ゆるあかね雲
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残るジャンダルム

 この歌はまだ歌い継がれているのだろうか?
 私は帰路,上高地ビジターセンターに立ち寄り「穂高よさらば」の歌について聞いてみた。
 20歳代と思われる女性スタッフはA4サイズに書かれた「穂高よさらば」の譜面となんと7番まで続く歌詞を渡してくれた。
 「この歌は今でも歌われていますか?」と尋ねると「今はほとんど歌われていない。バスガイドさんも知らないのでは・・・」と答えた。
 「なぜあなたは知っているのですか?」と尋ねると「山小屋や登山関係者たちの宴席で50歳以上の方が必ず歌うのでいつの間にか自然と知るようになった。一般の若い人は知らない」と答えてくれた。
 私が青春時代に教えてもらった歌「穂高よさらば」は今,消え去ろうとしている。空前の登山ブームのなかでこの歌がなくなるのは寂しい。
 消え去る歌であるならば,若い登山者が「新しい穂高の歌」を作って欲しいものだ。
 64歳で北アルプス・奥穂高岳初登頂は自分自身に「勇気と自信」を与えてくれた。これまで霧島や久住の山しか知らなかった私は次回の山行におおきな夢がふくらむ。余命3カ月と診断されても国内や海外の山に登り続けている登山家の田部井潤子さん。山行できるときに登高することが「健康の秘訣」と話している。私も残された人生を山行で楽しみたい。

  胸深く抱きし夢は 天空のはるか彼方
  振り返る足跡ひとつ 残せし影は知らず
  悠久のアルプスの頂に立てば
  齢60を超え気付く命のはかなさ
  どこまでも続く夕暮れの空のもと
  奥穂の峰で未だ蒼き心を誓う
                       米村 秀司 

筆者略歴
 1949年生まれ
 1971年 KTS鹿児島テレビ入社
       この間,報道部長,編成業務局長,企画開発局長に就任
 2009年 KTS鹿児島テレビ定年退職
現在
 鹿児島シティエフエム 代表取締役社長



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