随筆・その他
私 の サ ッ カ ー 人 生
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大げさなタイトルを付けたが,私の趣味を書いてみる。
先日,鹿児島大学医学部・歯学部サッカー部OB会があった。OB,現役の懇親会だけではなく,午前中にOB会サッカー大会を行った。今回は鹿児島大学整形外科特任准教授石堂康弘君の企画で鹿児島大学医歯学総合教育セミナーが開催された。セミナーへの参加で県外からの出張がしやすく配慮された。前任のサッカー部部長の吉田愛知先生(鹿児島大学名誉教授,現:鹿児島市立病院臨床検査監理医)の退官記念講演会,特別講演に土器屋卓志先生(埼玉医科大学放射線科客員教授,現:佐々木研究所附属杏雲堂病院放射線科顧問)に当時のサッカー部の様子を交え講演してもらった。その他,県外OBの一般演題が3題あり,約100人参加の教育セミナーは自分たちの専門外ながら画期的で勉強になった。懇親会が盛り上がったのは言うまでもない。東京,埼玉から来鹿していた。出席者最年長は昭和41年卒業で前鹿児島市立病院院長上津原甲一先生だった。上津原先生は私が現役時のサッカー部顧問部長で,以後何かと公私にわたりお世話になって今日まで至っている。OB会会長は昭和47年卒業の種子島産婦人科医院院長住吉 稔先生で今でもシニアリーグに来られている。
私は大学入学前はサッカーに関しては全くの素人でそれまでは陸上や登山をやっていた。昭和55年に鹿児島大学医学部に入学。学部を超えた友達が欲しかった。当時医学部の教養部は2年間郡元キャンパスで授業が行われており,桜ヶ丘医学部のクラブではなく,本学のチームスポーツクラブに入る事にした。ラグビー部に入るつもりだったが,ラグビー部のグラウンドに行く手前でサッカー部が練習しており,しばらく眺めていたらそのまま誘われてサッカー部に入部した。
当時の鹿児島大学サッカー部は保健体育学科の体育教員専攻の学生がほとんどでサッカー初心者は皆無だった。まして医学部生は同級生にも相手にされなかった。ただ走ってボールを遠くに蹴るだけだった。練習が終わって室内灯のもとで校舎壁にボール蹴りを2年間した。1年次の教養部ではグラウンド整備準備のために最後の授業は途中から抜け出していた。3年生になって全国サッカー指導者養成研修会に参加した。参加者は筑波大学をはじめ現役のサッカー部員で運動生理,サッカー戦術論,体力向上理論を実践させられた。東京大学検見川グラウンドでのゲームではさらに全国の技術レベルの違いを思い知らされた。どうにかこうにか4年生まで続けて,医学部サッカー部に移籍した。それまでは公式戦に選手として出ることはなかった。医学部サッカー部では副キャプテンをしたが,部員は経験者がほとんどで私よりうまく,後輩の指導は苦手であった。ただチームで一番遠くボールを蹴れた。大した業績はないが,思い出はいくつかある。県大学学生リーグの鹿屋体育大学戦で私の1ゴール,1アシストで勝利した。当時鹿屋体育大学は武道体育の専門学生でサッカー経験者(鹿児島国体選抜)が1人しかいなかった。卒業年度に留年してサッカーを続けた。それまでスイーパー(バックスのさらに後ろ)をしていたが,最上級生(7年生)の希望でセンターフォワードをした。医学部の九州山口大会で優勝できた。天皇杯鹿児島予選だったろうか,鹿児島実業高校との試合で10数点取られて負けたが,1ゴールを私が決めた。
社会人ではドクターズ(鹿児島県社会人リーグ)に入れてもらったが,なかなか試合に出してもらえなかった。仕事が忙しくても寝不足でも時間があったら試合に行った。北海道旭川医科大学留学中もリーグ戦には参加した。先輩に交通費をカンパしてもらった。一度は地域リーグで優勝もした。40歳になると全国マスターズ大会(40歳以上シニア全国サッカー大会)に鹿児島選抜として参加した。チームメンバーは鹿児島実業,商業高校卒業生や元ヴォルカ,京セラ,鹿児島教員団など国体選抜の面々で鹿児島県サッカーの強者(つわもの)揃いだ。もちろん私は補欠で,完全な優勢試合か怪我したレギュラーの交代で試合に出してもらえた。うれしかったのは学生時代の先輩や同級生,後輩と会えた事。鹿児島大学を卒業後出身県の県選抜で大会に参加していた。同級生や後輩は私がサッカーを続けていることに驚き喜んでくれた。鹿児島県選抜は45歳まではお呼びがかかったが,以後は選ばれなかった。九州予選や全国大会準備の練習会,合宿をするが,体力は大丈夫なので大変な勉強になるし,サッカーが上手くなっていく。50歳になるとオーバー50全国大会に向け再度選抜された。今度はレギュラーになった。大方のチームメンバーは変わりないのでプレースタイルや戦術がわかる。今でもよく怒鳴られているが,技術はうまくなっている。ただ早く走れなくなった。遠くまで蹴れなくなった。でも鹿児島SFCでは,遠くまで蹴るよりグラウンダーで正確につなぐ,競争ではなく体を入れてボールを支配する。今年6月に静岡県藤枝市で全国大会があった。全国地域予選を優勝した16チームでの大会である。毎年ではあるが予選リーグで勝ち残れない。全国のレベルは高い。やはり早く走れないと勝てない。サッカー歴32年はまだ甘い。今年55歳になって,来年は鹿児島選抜にはもう呼ばれないだろう。次に全国を目指すのは60歳以上の大会になる。
現在,シニア40歳以上,50歳以上,父親サッカー,公官庁リーグ,ミックスリーグで年間リーグの試合をして,その他に九州ドクターズ大会,鹿児島県選抜の練習会,フットサルに参加している。10歳台から60歳以上の選手とゲームをする。世代を超えて話ができる。子どもと真剣に張り合える。毎回試合の反省をするが,次回はこうしよう,あれを練習してみようと考えてなかなか楽しい。家内がどこを目指しているのかと聞くが,いつか日本一になりたいと思っている。
私の専門は血管外科(脈管専門医)である。閉塞性動脈硬化症,下肢静脈瘤,深部静脈血栓症,糖尿性壊疽などを扱っている。下肢の血流評価,血流量を評価し,血行再建を行っている。しかし,今日運動生理学で,運動中の筋肉内の動脈静脈血流変化は明確にはわかっていない。まして個人の運動能力と筋力増強や負荷加重の科学的根拠はない。私は両側膝関節の半月板,靭帯を損傷しているが,手術をせずにどうにかなっている。しかし,運動しないと,筋力がすぐ落ちる。特にサッカーは片足立ちでプレーするので内転筋の筋力とバランスは必要である。毎日の診療で患者の治療にあたって,自分がサッカーができることの喜びと現在の人の縁に感謝を感じている。私の道楽で迷惑をかけている心臓外科医の峠 幸志君や病棟外科スタッフには申し訳なく思っている。
最後にチームメイトでシニアドクターズの監督,県サッカースポーツ医学委員の肥後内科肥後公彦先生の病気回復を心より願って筆を置きたい。
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筆者:後列向かって右から4人目の髭づら
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| 次号は,鹿児島市立病院の中村 登先生のご執筆です。(編集委員会) |

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