=== 随筆・その他 ===

美しかった錦江湾B

中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤
 現在の若い人々は昔の綺麗な,風光明媚な過去を知らないまま現在を見ている。幸いに綺麗な錦江湾の過去を見てきた私としては失われた鹿児島の美しさを思い出して若い皆さんに伝えておきたいと思う。今まで桜島,与次郎ケ浜などについては参考資料1),2)に記載してきたので今回は鴨池から平川を思い出してみた。

*海浜院
 鴨池公園の南側に海浜院という広い松林に囲まれた数万坪の敷地があった。明治36年,鹿児島市医師会の大先輩,加藤好照,中江佐八郎先生が建てた結核を専門とする大規模なもので今の真砂町から真砂本町に及んでいた。大きな自然石の記念碑が真砂町大通りに建っている(写真1)。その海浜院の規模は日本的にも世界的にも有名な療養所で日本国中から患者が集まっていた。当時の大きな松の樹が真砂保育園の周りに残っている(写真2)。当時結核は全国に蔓延し死亡率も高く,脚気と共に二大国民病としてもっとも恐れられていたのである。まだ結核の治療というのは安静,栄養と新鮮な空気それには転地療養しかない時代だった。
写真1 海浜院の記念碑

写真2 敷地内の松


*鹿児島海軍航空隊
 病院の南側に大きな紡績工場があったが戦時中海軍航空隊の予科練に接収されていた。私も学生時代に予科練の身体検査に狩り出された事があるが,あの可憐な少年達がすごく厳しい体罰で躾けられて,そのうえ昇進すれば大半は特攻隊になって南の海に戦死して行ったのだと思えば感慨無量である。この頃から鹿児島海軍航空隊では土日の無い月月火水木金金の激しい訓練が行われていた。この基地から日常的に南方各地に爆撃に行ったりしていたが逆に米軍から基地の頻繁な空襲を受けたりしたのである。今の県庁と市医師会病院間の大通りが昔の航空隊の滑走路だった。今見ると拡大された道路になっているがその頃は随分狭かった(写真3)。
 今の鴨池中学校と市立学校給食センターの間の松林には小さな海軍病院があったが敗戦直後ベッドや医療器具を払い下げて貰ったものだった。また私が小学生の頃この辺に昔の県会議員が個人で飛行機を持っていて離島間の交通に使っておられたが,間もなく無くなった。それが鴨池空港の源泉であったと思っている。また南国ショッピングセンター隣の南国バスの車庫は昔の航空隊の格納庫で,当時は大きく見えたが今ではこれで戦争をしていたのかと思うほど小さく思われる。南方帰りの戦闘機(ゼロ戦)が多数帰投しては整備員たちが群がって整備していたものだ(写真4)。錦江湾のまわりの地形が真珠湾に似ているとの事で,航空隊としては桜島を背景に錦江湾に浮かぶ航空母艦を目標に戦闘機が急降下,急上昇の猛烈な訓練を繰り返していた。私はよく桜島に登山していたが,頂上から間近にこの演習を見下ろしてその壮絶な轟音に感激するものだった。この美しい錦江湾が戦争の為に使われていた悪夢のような事実を知り,あの訓練部隊の大部分がハワイ空襲に参加されたと思えばまさに感無量である。
写真3 旧航空隊の滑走路
2車線幅ぐらいだった

写真4 旧航空隊の格納庫
ここで機体の修理をしていた


*脾えもん坂
 今の二軒茶屋電停の近くの山手側,涙橋の南奥地に「脾えもん坂」と言って犯罪人の首切り場があったが,薩摩のボッケモン達が処刑が終わると一斉に死体に群がって競って胆を取り出していたそうだ(元鹿児島市長 勝目 清談)。あの薄暗い道もすっかり造成されて跡形も無い(写真5)。
 さらに南に向かって谷山街道(観光道路)笹貫の脇に社会保険診療報酬支払基金があるが,あの正面玄関の石垣までが海で錦江湾の波が打ち寄せていた(写真6)。
写真5 脾えもん坂,現在は住家が
立ち込めている

写真6 社保診療報酬支払基金の外壁
石垣の所まで波が来ていた


*脇田電停
 私は敗戦後一時宇宿小学校の近くに住んでいたことがある。その頃脇田電停から毎日電車通勤をしていた。ひろい田圃のさなかにぽつんと建っているおとぎ話に出るようなロマンチックな建物が電停で,周りの景色にマッチして綺麗だった。電停はバッタや蜻蛉が飛び交い,海が近かったので田圃の畦には赤手蟹や船虫などがごそごそ這いまわっていたものだ。最終電車で帰った時は宇宿小の楠にフクロウが鳴き,田圃の小川には蛍が光ったりしていたが,今ではとても考えられない。鹿児島市電は荒田,鴨池,脇田,谷山は当時まだ広い田圃の中の高い土手の上をチンチン電車がまっすぐ走る姿が唐湊温泉からでも見えており,それに荒田八幡のこんもりとした森が見渡せるものだった(図1)。
図1 昭和初期の鹿児島市電

写真7 ラ・サールの修道院
昔はぎっしり蔦に囲まれ薄暗い感じだった

図2 現在の南栄町交差点の近くに
あった岩山トンネル。今はない

写真8 七ツ島記念碑

写真9 鹿児島赤十字病院

途中の各停留所は各駅各々違った設計でおとぎの国のような可愛い造りになっていた。特に鴨池動物園駅は高架になっており大規模で子ども達を喜ばせた。あの頃の各停留所の設計図か又は写真でも残っていれば是非見たいものだ。

*射手場公園
 その海岸を小松原方向に行くと,笹貫電停の近くにこんもりと盛り上がった小さな山があり,登ると天保山から七つ島まで伸びる誠に雄大な海岸線,小松原と秀麗な桜島が見渡せるものだった。そこは射手場公園と言って島津藩が鉄砲の射撃訓練をしていたとの説明文が建っている。今登ってみるとその頃の小松も大分背丈が伸びておりしかも周りには高層マンションが出来て全く視界が利かなくなっていた。

*ラ・サール高校
 そのすぐ隣がラ・サール高校だ。昔は松林の中に古びた蔦のぎっしり絡まった薄暗い礼拝堂があり不気味なものだった。敗戦直後昭和24年修道院からラ・サール学園が発足したのだ(写真7)。学校は当時珍しい中高一貫の英才教育校として気合十分で「ベストスクール中のベスト」を目指し優秀な学生を揃え,灘,開成と並んで全国に名高い東大進学校に発展した。今考えるとラ・サールの校庭は錦江湾の渚だった。それが東開町埋立工事として木材団地建設が進んでいた。それが今では校庭の前の渚は産業道路としてトラックやダンプが頻繁に通過する主要道路となっている。美しかった校庭にも校舎,寮としてマンションみたいな大規模な工事が進んでいる。あの物静かな海岸と渚の雰囲気もすっかり変わってしまった。残念に思う。

*七ツ島界隈
 そこから南に向かうと大規模の造成が進み広い南栄町の交差点となっているが,その南角が交通安全教育センターとして免許切り替えの度に何度か世話になったものだ。その交差点の西側にある市民体育館の前は広い塩田だった。そして今の産業道路から南栄6丁目のあたりは海だった。そこの波打ち際に珍しい小さな岩山があり短いトンネルになっており,そこを通り抜ける事が子ども達を喜ばせていた(図2)。海岸線をなお南に行くと産業道路の西側は光山公園の山際で崖下に綺麗な冷たい水が湧き夏は蛍がよく飛んでいた。
 東側は広い埋め立て地で七ツ島一丁目として大規模な工事現場になっている。その中に一区画を切り抜いて(七ツ島)の碑が残っている(写真8)。私たちが子どもの頃は広い渚に点々と大小七つの島が浮かんでいたものだ。ここでは各々七つ島の岩の窪みに隠れた一口蛸を火吹き竹で塩を吹き込んで誘い出し捕らえるのが,子供心に面白く楽しい思い出だった。この一口蛸が非常に美味しかった事を忘れない。

*鹿児島赤十字病院
 そこを南に進むと海に突き出た半島に鹿児島赤十字病院がある。昔,鴨池にあった海浜院を日赤が引き継ぎ,こちらに移転して来たのだった。私の外科入局時代,肺結核が非常に多く,胸郭整形とか肺葉切除などが流行っていたから我々は教授のお供でよく出掛けた。教授はあんなに小さな木造手術場であれだけのスタッフでよくぞあんな大きな手術を次々やられたものだと今更ながら感心している。現在の鉄筋の大病院を見ると感慨無量だ(写真9)。
 幾つかの手術を終えると海岸に係留してある手漕ぎの小船で私が漕いでキス釣りに行くものだった。釣果が悪いと私の漕ぎ方が悪い等と言って叱られた。その代わり私の釣り針のもつれを根気よくほどいてもらったりもしたものだ。教授と医局員の仲を思い出して教授の恩恵に感謝している。七ツ島一丁目とか石川島播磨造船など埋め立ての無い頃で桜島が物凄く近くに見え,遠くには霧島連山,高隈の山々を望み非常に雄大で美しい光景だった。しかしあれだけ綺麗だった海岸の老生松並木は松喰虫にスッカリやられてしまっている。70年以上経った今でもあの光景は忘れていない。
 今まで私なりの思い出の一部を述べてきた。冗長の感じはしたが鹿児島の昔を偲ぶ何かの足しになれば幸いである。
 あれだけ美しかった錦江湾には次第に各所に浮遊物が浮かび,海岸は鉄筋により埋め立てられている。確かに文明は発達し便利にはなったが一方失ったものも大きい。渚は無くなり魚類も消えた。漁民は漁業権を失い農民は田畑を失った。それも止むなしとされてきた。その代償として広い埋め立てに直線の国道が出来て交通は便利になった。その代わりにどれだけの自然が消えたものか私は童謡詩人金子みすずの(大漁)詩を思い出す。
 「朝焼小焼だ大漁だ
  大羽いわしの大漁だ
  浜はまつりのようだけど
  海のなかでは何万の
  いわしの弔いするだろう」
 世の中はこんなものかと感慨無量だ。暫く錦江湾の現実を考えてみたい。

参考資料
1)美しかった錦江湾  平成25年 8月号74頁
2)美しかった錦江湾A 平成25年 9月号27頁
3)脇田有情      昭和55年 1月号31頁
4)錦江湾の濁り    平成 6年 8月号34頁
5)鹿児島空港の淵源  平成18年 4月号36頁
6)薄幸の童謡詩人金子みすゞ(T)
            平成19年 8月号18頁
7)鹿児島市電の思い出 平成19年12月号56頁
8)鹿児島港の昔    平成20年 2月号23頁
9)種子島航路の思い出 平成20年 4月号26頁
10)奄美キリスト教圧迫の経緯
            平成21年11月号19頁
11)鹿児島八景     平成22年 9月号39頁
12)80年前の鹿児島風景 平成23年 5月号41頁

※1)は鹿児島県医師会報,2)〜12)は鹿児島市医報に掲載されている。



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