緑陰随筆特集

小笠原自然遺産紀行
中央区・中央支部
(鮫島病院)    鮫島  潤
 
 私は若い頃から旅行が好きだった。お陰で国内国外を大分回って来た。しかし小笠原諸島はなかなか機会が無かった。この度「小笠原世界自然遺産への旅」に行く誘いがあった。
写真 1 小笠原諸島

写真 2 鯨潮吹き

写真 3 鯨ブリーチ

写真 4

写真 5 係留ブイ

写真 6 にっぽん丸

写真 7 上陸風景

写真 8 迎えのワゴン

写真 9 足拭き

写真 10 野山羊

写真 11 山頂の石畳

写真 11 山頂の石畳

写真 13 見送り


 小笠原は東経で言えば東京の真南1,000qにあり,緯度で言えば沖縄の真東1,500qにあたる島で昔から鳥も通わぬ八丈島のまだ南にある大小30個の群島である。日本列島生成以来未だ大陸に接した事が無いだけにその植物,動物の成り立ちは全く個性的で数万年昔の火山活動に伴う特殊の地質を有しておりその道の学者達に注目されている。世界自然遺産に登録されるのも当然であろう。私は50年ほど前に屋久島の営林署に勤務していた事があり,小笠原の熱帯樹林と星空に憧れを感じて今回のツアーに早速申し込んだ。
 博多を離れた「にっぽん丸」は間もなく関門海峡を通過する。ついで船は豊後水道を南下して行く。敗戦を知りながら特攻艦として沖縄に向かって進んだ戦艦大和の将兵達の心境は如何だったろうかと,しみじみ思う。船が四国を離れると携帯電話が通じなくなり,何となく心細い。
 船が南下するに連れて低気圧の範囲に入り次第に揺れ出す。「にっぽん丸」も2万トンはある豪華客船なのだが私が今迄何回か利用していた「飛鳥」の5万トンには遥かに及ばない。フラフラとして足元が定まらない。それでもいつの間にかぐっすり眠っていた。
 翌日の一日航海を経てその翌日の夜明けにやっと小笠原諸島に近づく(写真1)。船の周りには数羽のカツオドリが付かず離れずについて来る。やっと父島二見港に到着したのに前夜来の風の為に入港が出来ない。やむ無く風の収まるのを待つことにしてその間,父島から母島その他の伊豆鳥島を周遊してくれた。
 テレビでよく見るアホウドリの繁殖地,鳥島を眺める。昔は数万羽のアホウドリがいて鳥柱が建つ程だったそうだ。その羽根で羽毛布団を作るために乱獲が酷く,遂に殆ど絶滅したと言う。今では環境庁の繁殖の努力もあって大分回復したそうだ。また江戸末期ジョン万次郎が土佐沖で台風に遭い遭難したが,幸いにこの鳥島で米国の捕鯨船に救われて本国に渡った。アメリカ滞在中船長の好意で彼の地の学校に入り学問技術をマスターして十数年後,やがて帰国を許された時,彼は奄美大島から薩摩に入国して島津斉彬公に大いに重用されたという歴史を知る。土佐足摺岬に万次郎の大きな銅像がある。父島の隣に1973年・昭和48年海底噴火と騒がれた火山島がある。現在はその一部が海上に認められるだけだが波の浸食により変形し湾口は閉じて釣鐘状の湖になり海岸には漂着した種子からヒルガオが自然発生しているそうだ。
 母島を通過する我々の眼前でザトウクジラの親子の群れが派手な潮吹きや大きなジャンプ「ブリーチ」をしてくれた(写真2,3)。テレビでは見られない豪壮なもので迫力万点だった。思い掛けないショーだった。
 また昔から船乗り仲間の伝説に船を引きずり込んだという巨大なダイオウイカの話を聞く。最新のテレビ・ハイビジョンカメラによりその存在が解明しつつあることを特別番組で報道していた。島では将来ダイオウイカを観光資源として期待しているそうだ。一方,残念ながら錦江湾では普通に見られるイルカの群泳を小笠原ではとうとう見られなかった。
 父島の国立天文台小笠原島観測所と岩手県水沢天文台及石垣島天文台と鹿児島県入来峠にある鹿児島大学天文台の四箇所が組んで直径2,300qの超大型電波望遠鏡を形成し大宇宙(天の川)の観測に活躍している事を聞いて驚き,鹿児島大学の役割に感心した(写真4)。
 やっと風向きが変わって無事父島二見港に入港出来た。江戸末期ペルーも寄航し,ジョン万次郎,勝海舟等も咸臨丸でここに立ち寄ったという由緒ある港だ。沖合いの大きな係留ブイに接着して乗客は多数の小型漁船での送り迎えと言うことになった(写真5,6,7)。
 いざ上陸して驚いたのは今まで各地方でのツアーの経験では,数十台の大型観光バスが並んでいたがその代わりに大小のワンボックスカーが10台ぐらい並んで待っているではないか(写真8)。島の人口2,500人前後,宿舎としては民宿が数十軒あり目立つ建物としては海洋センター,亜熱帯植物センター,ビジターセンターなどがあり高層建築は見当たらない。天候不順のせいもあってグループの予定は大幅な変更を余儀なくされた。各グループの人数が揃ったところで目的別に出発する。トラックでの観光は初めてで珍しく面白かった。私は小笠原固有植物観察班に加わる。小さい島ながら道路は綺麗に整備されて昨夜来の雨で,森の緑は洗われてドライブの気持ちは良い。自然観察指導員という専門の案内人が島の自然発生から独自の発展の経過を分かりやすく説明してくれる。
 私は始めに申し述べたとおり屋久島営林署勤務の経験からこちらにも似たような植物も多いと予想して興味を持っていた。乾性低木林,特に固有植物,動物の生存地域には延々数キロのビニール網を巡らせ地面近くの部分は二重構造にして野犬や野猫,野山羊,など小動物が入り込んでアカガシラカラスバト,メグロ,大コウモリなど天然記念の動植物を荒らさないように厳重に保護されている。このラインからは特に専門の案内人なしでは入れぬようにしてあり,しかもそこに入るには洋服や靴底に付いて内地から持ち込んだ種子や胞子を十分拭き取ってから中に入るようになっている(写真9)。完璧な原生動物植物のサンクチュアリー 〔聖域〕 を形成している。私は考えた,沖縄本島ではヤンバルクイナが,奄美大島ではアマミノクロウサギが車両事故で多数死んでいるのを見てきたが,然しなる程これだけ警戒に徹底していれば外来種の植物,動物の侵入,交通事故から完全に護られているのだと大いに感心した。
 山の部落の合間に山羊の群れを見掛けた(写真10)。険しい斜面を自由に上り下りしている。これは戦前に食糧として持ち込まれたのが異常に繁殖し在来の自然草木を食い散らして自然林を荒らしている。当局としては一生懸命に山羊の駆除をしているが繁殖の力が強くて困っているとの事だ。駆除に成功した島では天然自然林の復帰に成功しているという。
 山道に入り道は険しくなる。ガイドは羊歯や棕櫚,椰子,苔などの珍しい植物を説明してくれる。林相は屋久島に似て若い頃を懐かしく思い出した。山深く入ると木の肌に陸棲の巻き貝を見掛けた。私が若い頃80年前には鹿児島市内の城山公園の樹木にも陸棲の貝が多数いた事を思い出した。
 私は手馴れたガイドの案内により島の中央部の頂上360mまで上り詰める事が出来た。展望は父島,弟島,母島,妹島などを含め,全島を見下ろして頗る雄大だった。山道の途中で蛸壺を見掛ける。戦時中小笠原防衛隊の兵士が空襲の際に隠れていたそうだ。父島の頂上近くに大きな石を積んだ塁壁がある。軍の発電所跡とか聞いた(写真11)。赤錆びた高射砲陣地,レーダー基地の残骸を見掛ける。戦時中に小笠原島のすぐ南の硫黄島,グアム島から帝都を目指して頭上を往復する雲霞の様なB29の大群を迎え撃ったのかと当時の内地の戦況を思い出して感慨無量だった。軍関係のものとしてはトーチカとか沈没した輸送船なども見られるそうだが何しろ急ぎの旅だったので見過ごして来た。
 下山して海岸に出る。入り江に入って海はあくまでも静か,昨夜の嵐が嘘のようだ。シュノーケリングとかカヤック,グラスボートが楽しめるそうだ。綺麗な砂浜に海亀が産卵して足跡を消しながら帰っていったと見られる痕跡が綺麗に揃えられていた。これも屋久島時代に随分見てきた思い出がある。
 タコの木は気根が蛸の足のように幹を取り巻く特有の形から「小笠原村の木」に指定されている。ホルトの木,オオタニワタリなど熱帯特有のあつい茂みもあった。沖縄でよく見掛けるディゴの木でこの島の原生のものは,ムニンデイゴと名付けられている(写真12)。全体的に小笠原島原生種のものは頭にムニン(無人島の意・小笠原島の旧名)と,名が付いている。見るもの聞くもの誠に珍しく,ようこそここまで来れたものだ感激した。
 台風の為,行程が短縮されて一日のみでは残念ながら心を残して島を離れる事になる。今までの経験ではツアーの一行が汽笛と共に出港するときには土地の青少年団とか婦人会の皆さんが太鼓を叩いたり踊りを披露して見送るのだが小笠原は人も少なくその様な行事は無く,ただ漁船の集団が船の周りを走り回って大声で見送ってくれた。これがかえって心がこもって印象に残るセレモニーだった(写真13)。
 私はこの島を訪れてこの島がいつまでも今のままで東洋のガラパゴスと呼ばれ世界自然遺産のままでありたいと思った。屋久島その他の自然遺産が過度の観光開発により大きく変貌していることは大きな失望だ。小笠原は今の開発で十分だ,バスもタクシーもホテルもこれ以上要らない,これで十分だろう。世界自然遺産を唱えるならばこう在るべきだと痛感した。いつまでも自然を大切にと心から願って島を離れた。それでもこの一日間の旅は私の一生に残る旅であろうと思う。




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