緑陰随筆特集
再び250キロに挑戦!山口100萩往還マラニック大会 |
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西区・武岡支部
(もりやま耳鼻咽喉科) 森山 一郎
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國破山河在(国破れて山河在り)
城春草木深(城春にして草木深し)
感時花濺涙(時に感じては花にも涙を濺ぎ)
恨別鳥驚心(別れを恨んでは鳥にも心を驚かす) |
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(春のながめ:冬つきて,荒廃した長安の都にもやがて春がめぐって来た。国破れ,人々は離散し,人の世は変わり果てたが,春来れば依然として花は咲き,鳥は歌う。何という自然の無情さ,人生の悲しさであろうか。757年杜甫46歳作。漢詩選9『杜甫』目加田誠著:集英社)
平成25年5月2日木曜日。今年もこの日がやって来た。山口100萩往還マラニック大会での140キロの部は平成21年の初参加からこれまで3回ともすべて完踏している。しかし,3年前の250キロの部に初挑戦したときは,捻挫した足の痛みでどうにも歩くことも出来なくなり,175キロの宗頭文化センターで人生初の途中棄権を体験した。その無念さ失意を雪辱すべき機会がやっと今年巡って来た。あのときの破れた心は,大自然の中にあっては自分があまりにも小さい存在であることを認識させた。中国地方の山と河はいつも変わらない。毎年この時期の草木は新緑に青々しく茂る。棄権したときの傷心な己れには,これら自然界の営みがむしろ苦々しく感じられた。杜甫は『春望』で,おもしろかるべき花を見ても涙をそそぎ,家族と別れおることを恨んでは楽しかるべき鳥の声をきいてさえ心を痛ましめる,と詠っている。まさに春になれば,小生にとってはあの途中棄権の悔しさが襲ってくるのである。
午後6時。快晴。山口市香山公園瑠璃光寺をスタート。「ホーホケキョ」「ケーン」といつものように山間に響き渡る鶯と椹ふし野の川を渡る雉の声が我々ランナーを歓迎してくれる。
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写真 1 スタートから約10キロ地点。
椹野川の河川敷をまだ余裕をもって走る
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順調な滑り出しであった。最初の10キロ地点は,写真1のようにずいぶんと余裕のある走りをしている(写真1)。だがこのあと豊田湖に向かうだらだらした長い登り坂で早くも最初のトラブルが生じた。背中に背負っているリュックが肩に重くのしかかり,腰が痛くなり胸への圧迫感が生じ,息さえも苦しくなった。リュックを外して腰を曲げ伸ばしすれば,腰が軽く息も楽になるのだがリュックを放る訳にはいかない。昨年のこの大会はあまりにも寒すぎたため,今年は予防のため晴天にもかかわらず防寒防水のちょっと上等なゴアテックスの雨具を準備してリュックにしまっていた。安心感はあったがどうも重すぎる。まだスタートして30キロ地点である。今年も途中棄権なのかな。でもここではまだ棄権できない。せめて第1チェックポイントの豊田湖畔公園まではもたせたい。リュックの中から重たい雨具を取り出して手で持って走ってみる。背中のハリ,腰の痛みは軽くなった。
今日は夏も近づく八十八夜で,二十一日の月夜だ。空には満天の星が輝きいかにも身近に垂れてきそうである。こんな近くに星々を見たのは久しぶりだ。北斗七星もくっきり見え方位を間違えることもない。遅い二十一夜の月が豊田湖から昇ってくる。降る星と昇る月とが対象的で幻想的だ。「ここで棄権せずもう少し頑張ってみたら」星々も下弦の月も泉下の母も励ましてくれた。よし,このまま雨具を手に持ったまま87キロ地点の旧油谷中学校の第1荷物引き渡し場まで走ろう。雨具を左手に持ち右手に持ちかえ脇に抱えしながら,何とか負担が最もかからないように工夫し,やっとのことで油谷まで到着した。雨具をもった腕のだるさは続いていたが,腰の状態はだいぶ良くなってきた。
5月3日の朝ぼらけ,海湧食堂で朝粥を食べ少し元気が漲ってきた。3年前は,真夜中のランで睡魔に襲われた挙げ句,側溝に右足がはまり捻挫し,途中棄権の遠因となったのだった。今年も眠気はきたが,雨具を手に持つというストレスを感じながら走っていたせいか,意識がなくなるほどの眠気はなかった。そして途中休むこともなく,ゆっくりとだが走り続け一晩越せた。むしろ背中,腰が痛かったことが幸いしたかもしれない。天気も持ちそうだし,そんなに寒さもこないだろうと勝手に判断し,雨具はここ旧油谷中学校で帰りの荷物便にしまい,出来るだけリュックを軽くして再び走り出した。
風光明媚な俵島では,記念写真をとってもらった(写真2)。
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写真 2 99キロ地点。
俵島を背景に坂を軽快に(?)登る
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そして川尻岬の沖田食堂でいつものカレーを食べた後,しばらく走って畑峠にさしかかった時のことだ。右足の靴の中に小石が入ったので,立ち止まって靴を脱いだ時,うしろの方から大きな声がかかった。「おーい,そっちは違う道だよ。ここ『日吉神社鳥居へ』を左折だよ」と,まさしく天の声。「あっ,見落とした」何という偶然だろう。このまま呼び止められることもなく間違った道を行っていたら,恐らく道に迷い随分と時間をロスしたことだろう。厄介な小石と思っていたが,今は小石にも感謝だ。
左手には日本海,右手には峻険な中国山脈が続いている。空の青(碧),海の青(蒼),山の青(緑)。ここの青々は普段見る青とは色合いが違って見える。青村とか青海という地名もあり,青に対するこだわりがありそうだ。青春などというように青は春を象徴している。『青』という字は『生』と『月』の合わさった字である。青は『春の生』に満ちていることを意味している。では,青の下の字の『月』とはどういう意味があるのだろうか。月が青く見えることもあるが,月から青は想像しにくい。そうだ昔は『月』ではなく『生』の下には『円』()という字を書いた。青()とは,春夏秋冬と円のように生が巡るその中の春を意味するのかな。うーん,どこか何かしっくりといかないな。そんなくだらないことを考えながら,立石観音から千畳敷まで,果てしなく長く感じられる坂道を朦朧と登り続けていた時,不意に「フーザケンナ」と鶯の声が叫んだ。はっと我に返り,「フーザケンナ」でなく「ホーホケキョ」だろう。せっかく鶯が励ましてくれているのに,フザケンナと聴こえた自分が情けない。自らを嗤わらい,そしてそんなにも疲れている自分を慰めたりもした。そうしてやっとたどり着いた千畳敷では名物のソフトクリームを食べた。さあ残りちょうど半分の125キロだと奮い立たせ,今度は急峻な下り坂を足首・膝に負担をかけないよう注意してゆっくりと下った。千畳敷を下り終わってからは,仙崎まで珍しく平坦だったのでほとんど休まずに走った。鯨墓で折り返し,再び仙崎に戻り,そこからさらに12キロ程歩き走りし,ようやく昨年途中棄権した175キロ地点の宗頭文化センター(第2荷物引き渡し場)に到着した。
もう夜の10時半だ。お風呂と仮眠と夜食をとって,午後11時45分いよいよ未知のコースへの出立である。仮眠はたかだか40分。しかも外はとても寒い。防寒着はもうないので,お風呂で脱いだシャツを再び取り出して中に着て3枚重ねにして,何とかこれからの寒さを凌ぐしかない。夜明け前に着くであろう萩までの道中が心配だ。一人での旅立ちは心配なので,同じ時刻に出発予定の女性と一緒に残り75キロの完踏を目指した。でもすぐに仲間は増え10人ぐらいでの団体の行軍となった。しかし,それもつかの間で,左足首が腫れて痛みだし,足の裏のマメがつぶれ,皆についていけそうもない。再び完踏できないのではと危機感に襲われた。結局,同じような走力の女性のMさんと64歳の男性のIさんの3人で最後まで一緒にいくこととなった。偶然出会った3人であったが,今思えば必然的であったかもしれない。三見駅近くの交差点では,どの道を選択するか3人で合議して,行く先を決めて走ったこともあった。人里離れた山間の隘路では暴走族のような少しいかれた運転をする車に遭ったりもした。その時は,もし暴走族にからまれたり襲われたりしたら女性のMさんは自分が守らなければと気を感じたときもあった。Iさんが最後の食事所の虎ヶ崎つばきの館でカレーをほとんど食べられなかったときには,漢方の半夏瀉心湯を差し上げたかったのに,持参して来なかったことを少し悔いもした。
5月4日最終日もすっかり夜が明け今日も快晴だ。この日の萩の青もまた印象的であった。虎ヶ崎自然探勝路から見る日本海も絶景である。『あおによし』奈良の都は,その当時青い土で作られた土塀と瓦で青々としていた。『あおによし』とは『青丹よし』と書く。そうだ,『青』の字の『生』の下は,『月』でもなく『円』でもなく,土を意味する『丹』だ。『青』という字は,生き生きとした青い土という意味で,再生や春を想起させるのだ。あー,これでやっとモヤモヤが晴れスッキリと落ち着いたなあ。佐々並休憩所の名物の豆腐を食べながら独りごちた。
カレーが食べられなかった時は何となく頼りなげなIさんであったが,実は話を聞くとIさんは世界一過酷なレースのスパルタトロンを完走したことがあるとのこと,見直し尊敬してしまった。そのIさんが本領発揮されたのは,残り約7キロ地点の板堂峠で,何の足の問題もなくラストスパートをかけた時だ。我々2人はあっという間に離され,いの一番にゴールされた。
また,女性のMさんも実は百戦錬磨で,こちらの心配をよそに,小生よりも軽快な足取りで先にゴールされた。後で名簿を見て実年齢を知って驚いたが(ごめんなさい),一緒に走っているときは30歳代とばかり思っていた。日本各地で開催されているウルトラマラソンに何回も参加している強者だったのである。
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写真 3 250キロ完踏の感動のゴール。
時間は46時間27分06秒
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写真 4 ビールで乾杯したあと食堂前で記念写真。
最後の75キロを一緒に走った仲間3人。
左から筆者,I氏,M女史
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お二人に続いて,夢にまで見た小生の感動のゴールだ(写真3)。ゴールした瞬間はヤッターというただ単純な感動だけであったが,時間が経つとともにジワジワと喜びが反芻された。この万感の思いを,まず昨年5月15日他界した母に報告した。走り始めに敢えてリュックの重みという試練を与え,眠気を払ってくれて有り難う。小石を靴に入れ,道に迷わないようにしてくれて有り難う。陰ながら見守っていただいた亡き母に感謝した。次に妻子にメールして喜びを伝えた。帰宅したらこの感動を家族に話し,ゆっくりと噛みしめ味わいたい。
走っている途中,M女史とI氏お二人とも少量であったがビールを飲んでいたので,ゴールしたあと近くの食堂で生ビールで乾杯しようと誘ったら快諾された。完踏した後,3人で飲むビールの美味しいことこの上なし(写真4)。お互いの健闘を称え,またいつの日かウルトラマラソンでの再会を期して,5月4日夕方いろんな思いが去来する中,各自家路に着いた。
<あとがき>
マラソンは自分一人で最後まで走りきれなければならない。どんなにきつくても誰も助けてはくれない。多くの友に恵まれて頑張れと応援してくれても,結局は自分の走力を恃たのんで一人で完走するしかない。ウルトラマラソンとは更にきつい100km以上の距離を走る競技である。フルマラソンは孤独なスポーツであり,あまつさえウルトラマラソンは寂寞と不安感のいや増すスポーツである。友と一緒に走ることにより充実した満足感を得られることもある。しかしランナーの真の孤独感を克服できる唯一の方法は,その友との楽しい思い出を心に描くことにより,自分で自分の憂いを晴らすことだ。生涯孤独を愛した詩人がいる。偏屈の権化のような人物,三国魏の時代の竹林七賢の巨頭阮籍げんせき(210-263)である。彼の『詠懐詩』の中から次の詩を引いて結びの句とする。
日暮思親友(日暮れて親友を思い)
晤言用自冩(晤ご言げんして用もって自ひとり写すすぐ)
(夕暮れの中,私は親友のことを思う。心中の彼と語らって,自分で自分の憂いを晴らすのだ。『阮籍の「詠懐詩」について』吉川幸次郎著:岩波文庫)

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